「ララとキス? あんなもの、俺がどれだけ吐き気を堪えてたかわからないのか? あんなメス豚と、君を一緒にするな」 あたしは、呆然とクラウドを見返した。 「ララのご機嫌取りに行ったのは、アンジェラが俺を試したからだ。あの女は、仲がよさそうな恋人を見てると腹が立つ厄介な性格だ。俺が、君を放っといてララのそばに跪いたことで、アンジェラは満足しただろうな。あの女はずっと、俺と君を見てた。君がロビンに抱かれて会場を出ていったことも知ってた。俺が、どんなふうに嫉妬するか、君が、ララと俺を見てどんな態度を取るか、じっと眺めていた。悦に入った顔でな。作戦は成功だ。君はアンジェラの気を引いたよ。少なくとも、君は彼女の興味を得た。じゅうぶんすぎるほどにだ」 一気に言った後、クラウドは、唖然とするあたしを見て、また嘲笑った。 「だから、性格破綻してるって言っただろ」 破綻どころじゃない。 信じられない。 「たった二時間が耐えられなかったのか? そんなに孤独だった? 俺が君のために、あのメス豚と反吐が出るようなキスをしてる間、君は我慢できなかったっていうのか?」 「あたしはっ!」 「イヤだったら、なぜ俺に泣きつかない。俺に、できないって、こんなのは耐えられないって、言えばよかったんだ。ぜんぶは君のためだ。君が耐えられないなら、いつだって俺はこんな馬鹿げた計画はやめた。君は、俺のモノなんだ。本当は、アンジェラのところになんて、一分一秒たりとも、俺は行かせたくない。それなのに……っ!」 クラウドがあたしをベッドに押し倒す。ものすごい力だった。細く見えるクラウドのどこに、こんな力があるのか。 「――や、やめてよっ!」 「――君は」 クラウドはぞっとする笑みを浮かべた。それは、あたしが恐れていたものよりずっと――酷薄で、容赦のない目だった。 「――知らないだろうな? L18では、従順な女スパイを仕立て上げるのに、どこから仕込み始めるか――」 クラウドがあたしをベッドに押し倒したまま、ゆっくり、ピン、と弾くようにあたしの喉を指先で撫でた。 「まず――身体からだ。言うことを聞かざるを得ない身体に仕立て上げて……次に、……心を砕く。俺の前にいるときは、思考の自由も許されない。身体が勝手に、俺の脚元に這いつくばるまで……教え込ませる。徹底的にね」 「や……やめてよ」 そこにいたのはクラウドじゃない。あたしの知らない、おそろしいことをしてきた心理作戦部の副隊長だった。 『……ねえ。心理作戦部って、何をするところなの』 あたしは、ロビンに抱かれながら、半分酔ったままの頭でロビンに聞いた。昨夜の、真夜中のことだ。 『クラウドからは、何も聞いてない?』 『うん』 ロビンは、彼も酔ったような顔であたしの上で動いていたけど、急に動くのをやめて、こういった。 『アイツがどんな仕事してたかなんて――アイツが君にいってないとすれば、当然だな』 『どうして?』 『君に、嫌われたくないだろうから』 ロビンは、クスッと笑って、あたしの首元に顔を埋める。 『――あんなえげつない部署。俺なら死んだってゴメンだな』 軍部には必ずある、暗闇だよ。 あたしは、意味が分からなかった。ヤバそうなとこだとは思ったけど、ロビンのその短い言葉から想像するには、あたしはL18のことを知らなさすぎた。 多少は本を読んでるルナだったら、その怖さがわかったのだろうか。 でも、今、想像を超えて、それがわかる気がした。 めのまえのクラウドは、あたしの怖い想像を膨れあがらせるのには十分だった。 「一日たりともオトコが手放せない下衆女と自分を一緒にするくらいだ――素質はあるさ。……俺が手掛けるんだから、もっとマシにはなるだろうけどね」 「クラウド!」 お願いやめて。 怖い。 喉に声が張り付いて、出てこなかった。 「君を別にスパイにするわけじゃない。はっきりさせたいだけだ。……君の恋人は、誰?」 クラウドが眼鏡を外す。もう、彼はあたしの話を聞いてなんていなかった。冷ややかな目は、あたしが目をそらした雄の目とも違う。あんなもの、まだ人の温かみがあった。さっきから、クラウドは尋問官だ。 恋人なんかじゃない。 あたしは怖くて、――本当に怖いときは、悲鳴なんて、出ないのだ。 「誰?」 ぴしゃりと鞭打つような声。 「……ク、クラ――ウド」 あたしは、喉から掠れ声を出すのが精いっぱいだった。 あたしは、泣いた。声を押し殺して、ずっと泣いていた。 コトが済んだあと(それは、あたしが恐怖していたほどひどいものではなかったけど)クラウドは明らかに後悔していた。 彼はあたしに、「君を抱いてもいいかな」と最初に尋ねた。それは質問だったけれど、半ば命令なのは確かだった。イヤ、と言ったらなにをされるかわからない、そんな怖さがあった。あたしが頷くと、彼は普通にあたしを抱いた。でも、彼に欲情の影は微塵も見られない。 合意というなら、合意だろう。でも、それはムリヤリな行為と、なんの変わりもなかった あたしが泣くほどに、彼は後悔していく。 一番みじめなセックスだったかもしれない。互いに。 クラウドは、泣きやまないあたしに、ついに、「――ミシェル、ごめん」と謝った。 みじめなセックスが終わって、クラウドの怒りは冷めたのか。 それはきっと、いつものクラウドに戻っていたのだろうけど、あたしはさっきまでの恐ろしいクラウドがあまりに鮮明に焼き付いてしまっていて、それに答えることはできなかった。 答えたくなかった。 クラウドは、嫌がるあたしにバスローブを着せて、部屋を出て言った。彼は、あたしと別の部屋を取った。三日間、あたしはベッドで泣いた。その間に、お風呂も入ったし、あんまりお腹が空いたから、ルームサービスで何かを食べた。でも、なにを食べたか覚えてないほど、あたしは泣きっぱなしだった。 一二度、クラウドがあたしの様子を見に来た。でもあたしは、「来ないで!」と叫んで、クラウドを絶対部屋に入れなかった。しまいには、彼の声を無視した。彼が、ドアの向こうで悲しんでるのは分かる。 でも、あたしには無理だった。彼の姿を見るのが、怖かった。 三日目、あたしはやっと荷造りをした。 ここにはいたくない。この部屋には、クラウドとラブラブだった気配が、いやというほど残っていて、あたしを混乱させる。 彼の荷物もこの部屋に残っていた。あたしのものと一緒に荷づくりしたトランクの中に、たぶんL18にいたころの、パスカードが入っていた。 何の表情もない――冷たい顔をして、軍帽をかぶった写真付きの、パスカード。 L18軍事心理作戦部副隊長、特別調査班B所属――クラウド・A・ヴァンスハイト軍曹。 あたしには、分からない。ルナが言っていたように、あたしたちと、彼らは――クラウドは、生きてきた世界が違いすぎるんだ。 あたしは、怖かった。ほんとうに、怖かった。 ――でも、クラウドを、本当に嫌いになれない自分がいる。 その事実も、怖かった。 あんなことをされたのに、あたしはまだ彼が好きなんだろうか。 この三日間、夢の中でチェシャ猫は、泣きそうな顔をしていた。とても傷ついた顔をしていた。そうして、迷路にはまったあたしに、寂しそうな顔で出口を促すのだ。 あたしは、そのチェシャ猫の寂しそうな顔のせいで、なかなか出口のドアを開けられないでいる。 なんていう夢。 あたしは氷で冷やした瞼が、すこし落ち着いているのを鏡で確かめて、こっそり荷物を持って外に出た。もうタクシーは呼んである。廊下にはクラウドはいなかった。逃げるように、あたしはタクシーに乗り込み、行き先を告げた。 「K27にお願いします」 もしルナが、まだアズラエルに追いかけまわされているなら、一緒に宇宙船を降りよう。それしか、解決の方法はない気がした。 カザマさんに相談してみて、どうしようもなかったら、そうしよう。 まさか、この自分が、恋愛沙汰で宇宙船を降りることになるなんて思わなかった。 よく考えたら、すごい恋愛だったかもしれない。あたしの一生分、みたいな。 思い出になるよ。きっと――そうしたい。 貴方との恋愛を、イヤな思い出にはしたくない。 ねえ? クラウド。 また涙ぐみそうになるのを、こらえた。 さよなら。 ホントに、不思議な宇宙船だった。 この宇宙船に乗らなかったら絶対出会うはずもなかった、チェシャ猫、クラウド。 あたしは降りるね、この不思議な宇宙船から。 ドアを開けるよ。 ――この、不思議の国から、あたしは出ていく。 さようなら、クラウド。 ≪第二部へ続く≫
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