ふたりは思いきり小さな声で動揺を口にしたが、たしかに彼らはアズラエルとグレンだった。顔は、もう包帯が巻かれていないため、だれかははっきりとわかった。

イマリはアズラエルにうっとりと見とれた。

(やっぱり、かっこいい)

でも、アズラエルはルナの男なのだ。それを思い出すと急に怒りがこみあげて、アズラエルを陥れることになんの後悔もなくなった。ブレアはブレアで、アズラエルよりも隣の男に見とれた。ブレアは、グレンのほうが好みだった。ルシアンで、私服警備員をしているかっこいい人だ。

ブレアもかつては彼にナンパされることを夢見ていたが、一度も声をかけられたことはなかった。

 

「え、ど――どうしよう――腕とかもケガしてるっぽいよ? こんなんじゃ――」

ブレアが、予定外だという声でたじろいだが、イマリは口をきっと引き結んで、立ち上がった。彼らがめのまえを過ぎていこうとしている。リズンにも、客が集まり始めている。自分たちの「悲鳴」が観衆に聞こえるこのあたりでないと、意味がない。

「もう、あとには引けないじゃない!」

イマリは上に羽織っていたカーディガンを脱ぎ捨てて、立ち上がった。

 

 

朝、レイチェルは、いつもより少し早く病院に行って、あわただしく帰ってきた。朝早くルナの家に行けば、まだルナがいるのではないかと思ったのだ。

(今日こそ、いっしょにリズンに行って、お茶したい)

かつては、ルナといっしょに夕飯の買い物に行っていたのに、最近はまったくなかった。購入する食材の量が多すぎるのか、ルナではなく、セルゲイやカレンたちが買い物に来ていることが多い。セルゲイとカレンは平気だが、レイチェルはやはり、グレンがすこし怖かった。だから、グレンがいると、話しかけづらい。

言いたくはなかったが、彼らに、ルナを取られたと思っているのも事実だ。もしかしたら自分はマタニティ・ブルーなのかもしれないと自覚したが、彼らを招いたのがアズラエルかもしれないと思うと、(レイチェルは、セルゲイたちを、アズラエルの友人だと思い込んでいた。)アズラエルが嫌いになってしまいそうで、ひどく落ち込んでしまうのだった。

(落ち込んでちゃダメ。おなかの子にもよくない)

アズラエルだって、ケーキを焼いてくれるし、レイチェルがつわりでひどかったとき、レモネードを作ってくれた。優しいアズラエルを一度でも悪く思ってしまったことに、レイチェルは謝りたい気持ちでいっぱいだった。

(きっと、前みたいに、ルナとお茶すれば、気分は晴れるわ)

元気も出る。

そう思って、すこし興奮気味にリズンちかくの公園に差し掛かったところだった。

 

「キャーッ!!」

 

つんざくような、女の悲鳴。リズンの反対側から来たレイチェルは、遠目でその光景を目にした。

車いすのアズラエルとグレン。

そのまえにいるのは――イマリと――ブレア?

 

レイチェルは驚いて、思わず公園の休み場の陰に隠れてしまった。

(――え?)

耳にも聞こえるくらい、心臓が、バクバクと大きな音を立てていた。

(なに?)

木陰から、そっと道路のほうを覗くと、二人の悲鳴がレイチェルのほうにもはっきり、届いた。

「助けてえー! だれか、助けてえー!」

イマリとブレアの絶叫。イマリの服が破けている。ブレアもだ。レイチェルはどうしてふたりがあんな状態になっているのか、さっぱりわからなかった。

わらわらとリズンのほうから野次馬が集まってくる。「どうしたの」「なにあれ」などと、遠巻きに様子をうかがう声と、「だいじょうぶ!?」というイマリたちを助けに入る声。

人ごみに紛れて、アズラエルたちの様子はあっというまにわからなくなってしまった。

 

(え? ――ええ?)

レイチェルは、めのまえの出来事が信じられなかった。

まさか、アズラエルとグレンが、あのふたりを襲った?

どうして?

(あのふたりが? そんなこと、するわけないじゃない)

レイチェルにはすぐわかった。イマリとブレアの嫌がらせだ。

イマリたちが公園のほうから、アズラエルのまえに飛び出してきたのだ。

アズラエルたちは車いすから動いていないし、イマリの服は、最初から破れていた気もする。

 反対側の道路からまっすぐ歩いてきたレイチェルは、見ていた。

アズラエルたちは大ケガをしていて、動けない。あのふたりを襲うことなどできないし、第一、アズラエルたちに、あのふたりを襲う理由が見当たらない。

(まさか――バーベキューパーティーで通報されたこと、うらんでるの?)

それにしても、こんな手の込んだ嫌がらせをするなんて――。

(早く、ルナに知らせないと――ダメよ。それより先にあそこに行って、アズラエルとグレンさんを庇うべきだわ)

レイチェルの足は動かなかった。膝が震えた。レイチェルは、お嬢様然とはしていても、友人の危機には駆けつける、そんな気丈さは持ち合わせていた。いつもなら即刻あの人ごみの中へ入って行って、アズラエルたちの身の潔白を証明するはずだった。

 

(――でも)

レイチェルは、ふっと思った。

(アズラエルが宇宙船を降ろされたら、ルナはまた前みたいな生活にもどれる?)

また、ルナと毎日お茶をしたり、買い物に行ったりできる、生活に――。

 

(なんて馬鹿なこと考えたの、あたし)

レイチェルは青ざめて、やはり自分が行かなければと、休み場から一歩踏み出したとき、またイマリたちの悲鳴が聞こえた。

 

「きゃあああああ」

「なにすんのよあんた!!!」

先ほどの演技じみた悲鳴ではなく、本気の悲鳴だった。

レイチェルは、今度こそ妊娠中ということも忘れて、まっしぐらに彼らのもとへ駆けつけた。

なぜなら――猛烈な勢いでイマリたちの服を破いているのは、自分の夫と、その友人だったからだ。

 

「エド! ジル! ――何やってるの!!」

道路向こうから駆けてくるのは、レイチェルだ。エドワードとジルベールは少し驚いた顔をしたが、すぐに元の険しい顔にもどった。妊娠中の妻を気遣うことさえ、エドワードは忘れているようだった。すなわち、いつものエドワードではなかった。その気配は、怒りに包まれていた。

「エド、エド……落ち着いて」

レイチェルがそっと彼の傍によると、エドワードはブレアの服を破くのをやめ、ブレアをつよく突き飛ばした。どんな女性にもやさしいエドワードが、こんな真似をするなんて。これほど怒りを露わにした彼を見たのは、レイチェルも初めてだった。

「ごめん。――ごめんね、レイチェル」

エドワードはひどく申し訳なさそうな顔をしたが、後悔はしていないというような、決然とした目をしていた。

「でも、あんまり卑怯で、だまっていられなかった」

 

エドワードより、ジルベールのほうがもっと黙っていられなかったのだ。先に飛び出したのは、ジルベールのほうだった。

「やめて! やめて、やめて!」

さすがに下着が見え始めて、イマリは本気で悲鳴を上げた。

ジルベールは、イマリの服をビリビリ破き続け、ついに周囲の人間にはがいじめにされて止められた。

「ふっざけんなよこのバカ女!!」

ジルベールは叫んだ。

「だれがてめーなんか好き好んで襲うかよ! おまえらサイテーだと思ってたけど、ここまでサイテーだとは思わなかったよ! くっそ! 離しやがれ!」

 

だれが呼んだのか――パトロールカーで駆けつけた警官姿の役員に、イマリはここぞとばかりに叫んだ。

「こ、このひとが、あたしを襲ってきたんです!!」

イマリが指したのは、アズラエルだった。警官は車いすの大ケガ人を見やり、一瞬怪訝な顔をしたが、すぐにジルベールが、「違えよ! あのブス襲ったのは、俺だ!!」と叫んだので、ますます怪訝な表情になった。ブレアが「あたしのことも襲ってきた、」と叫ぼうとしたのも、エドワードに遮られた。

「この人を襲ったのは俺です」

「エド!!」

 

警官たちは、状況をはかりかねて互いに顔を見合わせた。

「おいおまえら――見てただろ!! この女の服破いたの、俺だって――!」

ジルベールが観衆に怒鳴った。イマリが即座に叫ぶ。

「え、ええっと――そう! コ、コイツもグルだったの! この男といっしょに、あたしを――」

「おい、それは――」

さすがにアズラエルが口を挟みかけたが、最後まで言わせてもらえなかった。

 

「ジル! あんた何やってんの!?」

シナモンの声がして、ジルベールは大きく舌打ちした。厄介なヤツがやってきた、説明するのも面倒だという舌打ちだ。

「このブスが、兄貴をハメようとしたんだよ!!」

「えっ!?」

シナモンには、すぐに状況が把握できなかった。

「なんなの――何が起こってんの? レイチェル!?」

「とりあえず、ちゃんと話を聞きたいので、全員中央署に来てください。車に乗って。――君もね」

警官に誘導され、手錠さえかけられていないが、エドワードもジルベールも、パトカーに乗せられた。――レイチェルは、それを蒼白な顔で見送った。イマリたちがそのあとを追って、もう一台のパトカーに乗った。続いて呼ばれたタクシーに、アズラエルとグレンが乗せられていく。

レイチェルは、貧血でも起こしたように、その場にふらふらと蹲った。

 

「あ――あたしが、悪いの――すぐに止めに入っていたら――」

「ちょ、レイチェル!?」

「あたしが、悪いの――」

「ね、マジで何があったの? いったい、何が――」

吠えるように泣き出した親友を支えながら、シナモンはパトカーの後ろ姿を呆然と見送ることしかできなかった。