九十三話 不思議の森のミシェル



 

 ミシェルが佇んでいたのは、ざわざわと風鳴りがする深い森の入り口。

 (あ)

 いつか、この森を歩いたことがある――そう、不思議の国のアリスに出てくるような森。夢の中で――。

 ミシェルはやっと気が付いた。これは夢だ。

 そういえば、クラウドと宇宙船で出会ってから、ほとんどアリスの夢は見なくなった。一度だけ、クラウドのZOOカードである、メガネをかけたライオンが出てきて、いっしょに森の中を歩いて、頭がいっぱいある金色の龍に出会った夢を見たが、それ以来、このテの夢は見ていなかった。

 アリスの夢である証拠に、ミシェルのめのまえにはやはり赤いじゅうたんの一本道。ミシェルはクラウドの姿を探したが、見当たらなかった。ひとりでこの森を歩くのは、どことなく怖いのだが。

 

 「やあ」

 クラウドかと思って声のしたほうを見ると、そこには小さな青い猫がいた。ミシェルの目線はだいぶ下。小さすぎて、視界に入らなかったのだ。

 

「こんばんは。わたしは、“偉大なる青い猫”」

 

偉大なる青い猫? 

ずいぶんと立派な名前だなあとミシェルは思いながら、彼と目線を合わせるためにしゃがんだ。青い猫は自分の姿を眺めまわし、

「ああ、わたしはちょっと小さいようだ」

十五センチほどしかないぬいぐるみの猫は、「アリスの物語では、お菓子を食べると大きくなるんだったな」と言って、ポケットから取り出したクッキーを少しかじった。猫は、実に、実に慎重にはしっこをかじった。

 ミシェルは思い出した。アリスはお菓子のかじり方を間違えて、大きくなりすぎたり、小さくなりすぎたりしてしまうんだ。

 

 「これで、よしと」

 ちょうどよくクッキーをかじった青い猫は、ミシェルと同じくらいの大きさになった。猫は不思議な格好をしていた。透けるストールをまとい、宝石が連なったアクセサリーをジャラジャラ付けた――サルディオネ――彼女と似たような恰好をしている。

 「わたしは君、君はわたし」

 青い猫はミシェルと自分を交互に示し、言った。

 「さあ、お茶会に行こう。みんな待っているよ」

 ミシェルは青い猫に手を引かれ――もとい、エスコートされて森に入った。

 

 赤いじゅうたんの先には、すぐに開けた広場があった。四角いテーブルに、ティーパーティーの用意。アリスでは、イカレ帽子屋や、三月うさぎがティーパーティーをしていた場所だ。だがテーブルはそれほど大きくはない。四人が囲めるくらいの小さなものだ。

 テーブルには、たった二人の出席者が顔をそろえていた。シルクハットの黒い鷹、そしてピンクのうさぎ。ピンクのうさぎは、“月を眺める子ウサギ”だろう。ミシェルは、ルナがいたことにすこしほっとした。

 

 「ようこそ! アリス!」

 帽子を取ってミシェルたちに挨拶をしてきたのは、タカだ。イカレ帽子屋のつもりらしい。彼の真正面に座っているのは、三月うさぎこと、ピンクのうさぎ。眠りネズミはいない。

 「お待たせしたかね」

 ミシェルは、自分から青い猫の声がすることに驚いたが、いつのまにか自分は席についていて、青い猫がいなくなっていたことに気付いた。手を見ると、青い肉球。猫は、「わたしは君、君はわたし」だと言っていた。あの青い猫は、自分だったのか。

 

 「そう待ってはいないわ」

 ピンクのうさぎは笑顔で首を振った。

 「眠りネズミは欠席よ。残念ね」

 ミシェル――青い猫の真正面は、やはりだれかの席なのだった。空のティーカップが置かれている。今日、ここに来る予定だったが、欠席なのか。おそらく、ここに座る人物――動物? も大きいのだろう。彼のために用意された椅子は大きかった。

 

 「眠りネズミがここに来られるわけがない! 彼は眠ったように見せかけているのさ。そうでないといけない。彼の行動が読まれてしまっては、すべての計画が台無しになる」

 黒い鷹は意味深なことを言った。

 「ひとりは欠席だが、こうして我ら四人会は、めでたく開催されたわけだ! おめでとう、“偉大なる青い猫”。ようやく君が表舞台に出てくる準備が整った」

 黒い鷹は紅茶のカップを高々と掲げ、乾杯の意を示した。ピンクのうさぎも、青い猫もそれに倣った。

 今日は、青い猫のお祝いの席なのだろうか。

 ミシェルには、まったく意味が分からない台詞の数々だったし、会合だったが、とりあえずだまってお茶を飲んでいることにした。アリスの夢は意味が分からないものと相場が決まっている。

 ピンクのうさぎが、中央にでんと存在感を誇示している大きなケーキを切り分けて、大きな一辺をミシェルの前に置いてくれた。ミシェルは早速ケーキに手を付けたが、チーズケーキとシフォンケーキと、モンブランが混ざったような味がして、おいしかった。

 

 「我ら四人が、一堂に会したのは、もう何万年まえのことになるだろう!」

 さすがイカレ帽子屋役だけはある。お茶で酔っ払ってでもいるのか、黒い鷹はひとりで気分よく語りだした。

 「我らのきずなは、“月を眺める子ウサギ”にとっても、君にとっても、それはそれは深いものだよ、子ウサギと“傭兵のライオン”たちのきずなに負けず劣らず――いや」

 鷹は一度ゴホン、と咳払いをした。

 「まあ、その次くらいかね」

 「“偉大なる青い猫”と、“真実をもたらすライオン”の次くらいにね」

 うさぎが付けたし、ミシェルが口を挟もうとしたが、鷹の雄たけびに遮られた。

 「我ら四人衆! 四天王! 四つの魂! 成功に彩られた宝!」

 鷹が喚いた。ミシェルはさすがに、「四人衆?」と疑問形にならざるを得なかった。鷹はついに、ティーポットから直接口に注ぎ始めた。鷹がだまったのを見て、うさぎが説明してくれる。

 「私と、あなたと、それからこの“英知ある黒い鷹”と、ここに来るはずだった“彼”」

 うさぎは最後に、空席を指した。

 「わたしたち四人もまた、数万年の魂の輪廻のなかで、縁を紡いできた友人同士――。何度かの生のなかで、互いに助け合ってきたの」

 「我々のきずなは強い!」

 鷹を無視してうさぎは言った。

 「私の場合、傭兵のライオンや、孤高のトラ、パンダのお医者さんとの縁は、“リハビリ”の要素が強いから、ひどく夢に出てくるけど、鷹さんも、青い猫さんも、そして彼も、過去の生でわたしのリハビリを手伝ってくれていたのよ」

 「無論君も、我らの手助けをしてくれた!」

 鷹がうさぎの手を取って唸った。

 「わたしたち四人は、深い友情で結ばれた、まあ、彼流に言えば四天王なの。過去の生で、四人そろって何かを成し遂げて来たことが多いから。縁も強いけれど、こじれて絡まりあったりしない――まあ、恋で結ばれたりはしないから――けれど、助け合っている関係」

 「なるほどね」

 ミシェルは納得して頷いた。ルナとそうだと言われたら、納得し得るものがあった。ミシェルも、クラウドがルナの夢をまとめた書類を見せてもらったことがあるし、ルナからも夢の話は何度も聞いている。だがそれは、どちらかというとアズラエルやグレン、セルゲイとのかかわりがほとんどで、ミシェルはたびたび出てくるだけだ。こんなに近くにいるのに、ルナの夢に、自分はほとんど出てこない。ミシェルはちょっと、さみしい気もしていた。自分は前世の夢なんて見ないし、ルナと自分の関わりは、あんまりないのかなあと。

 

 「お茶はどうかね」

 そう言いながら鷹は、自分のカップにお茶を注いだ。イカレ帽子屋そのものだ。

 ミシェルは思い出したように言った。

 「そういえば――“ガラスで遊ぶ子猫”はどうなったの?」

 ミシェルのカードは、“ガラスで遊ぶ子猫”だったのに。変わってしまったのだろうか。

 鷹は、お茶を嘴とカップに注ぐのをやめ、うさぎと見つめ合った。うさぎが言った。

 「“ガラスで遊ぶ子猫”も、あなたの一部よ。残っているわ」

 「だけれども、“偉大なる青い猫”のほうが、君の本質なのさ」

 鷹はそれだけ言って、今度は嘴でケーキを摘まみあげた。ミシェルはまだ聞きたいことがあったので口を開きかけたが、

 

 「時間だ! 時間だ! 時間だ!」

 

 時計を持った白うさぎ――白ではなく、なぜか茶色かった――が突如この開けた空間に乱入して来て、去って行った。一瞬のことだった。ミシェルは呆気にとられて、茶色うさぎが消えて行った森のほうを眺めた。まだ森の奥から、ジリリリリ、ジリリリリ、と時計のアラームが聞こえる。

 ミシェルは茶色うさぎを追いかけてみたくなった。気づくと、ミシェルは、座っていたテーブルからかなり離れた位置に立っていて、うさぎと鷹を見ていた。ふたり――二羽――は手を振っている。

 「ではまた! ごきげんよう」

 鷹が言った。

 「ではまた明日ね」

 うさぎも微笑んだ。

 「ああ、それから」

 ずいぶん離れた場所にいるのに、鷹の声が恐ろしく間近で聞こえた。

 

 「この会合のことは、だれにも秘密だ。“真実をもたらすライオン”にも、告げてはいけないよ」

 

 ジリリリリ、ジリリリリ、ジリリリリ。

 

 ミシェルは、鳴りやまないアラームを、現実に聞くことになった。

 「……おはようございます」

 ミシェルは、隣に寝ているクラウドにではなく、天井に向かって言った。