百十七話 イマリとブレアの罠



 

 「たいへんだ!」

 恋人が絶叫して起きたので、アズラエルも飛び起きた。

 「たいへんだ! チケットが足らないよ!!」

 そう言って、また後頭部が枕に落下したので、寝言だということが分かった。また例の、口に出すのも忌々しい、アレな夢を見たのだろう。

 

 「ルナ!? どうしたの」

 隣室からピエトが駆けて来たので、アズラエルは、そういえばこの家にはもう一匹ウサギがいたのを思い出した。

 「ルナ、なにか叫ばなかった」

 「叫んだよ。でも、いつものことだ。心配すんな。寝ろ」

 時刻は午前四時半である。どうも中途半端な時間だ。ピエトは、忌々しいまでに健やかなルナの寝顔をのぞき込み、「わかった」と目を擦りながら自室に戻って行った。

 

 「ちくしょう。ペリドットの野郎、今日こそは脅してでも腕と足を先に治させる」

 このままでは、ルナの頭を「うるせえ」と小突くこともできない。アズラエルは苦々しげに決意した。

 

 

 「このさかな! さかなどもめ! あたしが成敗してやるんだ!」

 ルナはそう叫びながら、塩鮭の切り身を、人数分に斬り倒していった。

 「チケットが四枚足らないくらいがなにさ! チケットが! よんまい! おさかなは、ななにんぶん!! ななにんぶんにさばかれろ!!」

 

 「いつもルナはおかしいけど、今日は輪をかけてひどいね……何かあったの」

 ミシェルが、味噌汁の鍋をテーブルに運びながら、こっそりとアズラエルに聞いた。

 「チケットが足らないって叫んでた。寝言かな」

 ルナの夢に関してはなにひとつ考えたくもないアズラエルの代わりに、ピエトが返答する。

 「チケット?」

 「ルナ、俺魚いらねえ。ジャムつきのパンと味噌汁がいい」

 「ええ? おさかな、人数分切っちゃったよ」

 「だいじょうぶ、あたしが食べる」

 カレンがルナの心配事を解決した。

 今日のルナは、言動もアレだったが調理の手順もおかしかった。今から魚を焼いたのでは、味噌汁が冷めてしまう。スムーズに食卓に並ばない朝食を、皆はのんびりと待ちながら、先にコーヒーを喫していた。

 

 「ルゥ。魚はあきらめて、目玉焼きにでもしたらどうだ」

 「……うん。そうする」

 ルナはグリルに魚を並べて、加熱をはじめてから言った。一番大きなフライパンに、卵をこれでもかと割り落とす。十個目を数えたところで、セルゲイが止めた。

 「ルナちゃん、今日は座っていなよ。私とカレンでするから――」

 ルナは「チケット、チケット」とブツブツ言いながら、テーブルに座った。コーヒーのマグを両手で抱え、「チケット」と繰り返している。

 皆は顔を見合わせ、ルナのカオスはいまさらなので、放って置くことにした。今日は、カオスの中身を分析したがるクラウドもいない。

 

 そういうわけで今朝は、ルナの夢の中でチケットが足らなかったせいで、とんでもない朝食になった。

 セルゲイは目玉焼きを何分火にかければ半熟で済むのかを知らなかったため、おそろしく固焼きの目玉焼きができあがった。しかもルナが十個も割り落とした卵がくっつきあい、セルゲイがひとりずつの皿に分けず、大皿にそのまま移したため、なんだか気持ち悪い外観になった。

 ピエトとミシェルは、「妖怪十個目玉」と名付けた。

 塩鮭は、ルナがタイマーを間違ったために焦げた。いつもどおりなのは、味噌汁と炊飯ジャーで炊かれたごはんだけだった。ルナは皆のお椀にごはんをよそい、飯茶碗に味噌汁をよそった。

 黙って座っていろと言ったのにこの有様で、ルナは容赦ないミシェルのツッコミを浴びながら、かなしげな顔で自分の味噌汁椀に味噌汁をいれ、さらにご飯をぶちこんで、アズラエルをさらに呆れさせた。

 「今日こそ、腕を先に治してもらうぞ。足もな」

 グレンは味噌汁をスプーンですくいながら、そう決意した。すくなくともグレンが動けたなら、目玉焼きがここまで固焼きになることはなかったし、彼はグリルのタイマーを何分にすればちょうどよく焼けるかくらいは知っていた。

 

 そんなこんなで、ルナのカオスが皆に伝播したのか、今日は朝からみんな、調子がおかしかった。だから、アズラエルもグレンも、すっかり調子がくるって、忘れてしまっていたのだ。

 

 ――ペリドットに、「家を出る時間を、一時間遅らせろ」と言われたことを。

 

 

 ルナは、みんなが食器を洗うそばでテーブルに頬杖をつき、「遊園地のチケットは、どこで売っているんだろう?」とついに具体的な悩みの内容を口にした。いままで、チケット、チケットとつぶやくだけで、チケットをどうしたいのかが、皆にはさっぱりわからなかったのだ。

 「遊園地のチケット? ふつうなら、一日パスポート券とか、入り口で売ってるじゃん」

 ミシェルが至極まともな回答をし、ルナは口をぽっかりと開けて、「そうだ!」と叫んだ。

 でも次の瞬間には、おくちをバッテンにした。

 「お財布を持ってなかった場合は?」

 「……買えないよね」

 当然の結果だ。

 

 「アズたち、もう行っちゃった?」

 ルナは、コーヒーメーカーに、挽いていないコーヒー豆をぶちこみながら聞いた。

 「ルナちゃんは、今日、なにもしないこと――もう行ったよ。行ってきますって言ったけど、聞こえなかった?」

 セルゲイは、ルナの手からコーヒー豆の入った袋と、計量スプーンを取り上げた。

 「え? ふたりだけで?」

 「そう。仲良くふたりだけで」

 ピエトは学校に行ったし、ジュリとクラウドは不在。今日はこれから、カレンも病院に行かねばならないし、セルゲイも用事がある。ミシェルもK05区ではない別の区画に用があるらしく、ふたりも付き添いはいらないと言った。

 

 「だいじょうぶかな?」

 二人の車いすはリモコン操作で完全なる自動式。シャイン・カードもあるし、何日か通ったルートでたいそうな障害物があるわけではない。だがルナは、いまさら思い出しても詮無いことを口にした。

 「今日はさ、ペリドットさんに、一時間遅れて来いって言われてなかった?」

 「あ」

 きのう一緒に聞いていたカレンが口を開ける。

 「そうだった――忘れてた。あいつらも、忘れてたんだ」

 ふたりは、結局いつも通りの時間に出かけて行った。

 「大丈夫だよ。早く着いたら、先に温泉に入っていれば――そっか。まだ自力じゃ入れないんだっけ」

 セルゲイは、ルナと顔を見合わせて、肩を竦めた。なんだか今日は、調子が狂ってばかりだ。

 

 ルナたちは気づく由もなかった。ペリドットが「一時間遅れて来い」と言ったのは、それなりの理由あってのことだった。

 ふたりがとんでもない事態に巻き込まれたことを知るのは、およそ二時間後である。