「――っぐ! オオオオオっ!!」

信じられないことに、ベッタラが井桁より大きい獣を押し返している。だが、獣の雄叫びとともに、すぐ彼は押し返された。

「バカ野郎! 下に転がるな! 踏みつぶされるぞ!」

グレンも思わず叫んでいた。ベッタラは、あわてて獣の前足から逃れ、かろうじて踏みつぶされるのを免れて、獣の下から転がり出た。

だれもが、安堵のため息を吐いた。

そこからのベッタラは防戦一方だ。

剣も鞘に納めたまま、逃げ続けている。

(セーシル、セーシル)

ベッタラは、息を荒げながら願った。

(セーシル、怯えないでください。ワタシはけっしてあきらめません。アナタもあきらめないでください)

 

――アズラエルたちは、様子がおかしいことに、気づいた。

ベッタラは、攻撃にうつらない。それがなぜなのか、アズラエルたちにはわからなかった。攻撃に出るタイミングが儀式によって決められているのか。ベッタラは獣の攻撃をかわせている。反撃に出るチャンスもあるはずだった。

「――っ、まただ」

アズラエルならば、あのタイミングで攻撃を仕掛けている。だがベッタラは、一向に反撃しない。交わすのが精いっぱいなのか。

さっきまでの勢いが、ウソのようだ。

(あのままじゃ、)

ベッタラの体力が、先に尽きる。

 

 

――セシルたちは、祭壇で、自分たちを守った見えない壁と、炎の壁を見た。

高熱もあって、目が回り、視界もぼやけていたが、あの恐ろしい獣とたたかっているのはベッタラだということはわかった。

ベッタラは、「ワタシが戦います」といっていたが、こんな顛末になっているとは知らなかった。

セシルが、そばにいたペリドットにすがった。

「いったい、何が起こってるんです。あの人を止めて! あれじゃ死んじゃう!」

獣は、獣というにも憚られる、化け物だ。

黒い煙をあげ、目は赤く濡れ、牙と角はするどく尖ってベッタラを殺そうといなないている。

 

「ベッタラが、おまえたちに言うなと言ったんだ。この儀式のことを話せば怯えるからといってな」

ペリドットは、しゃがみこんで、セシルの肩に手を置いた。

「ベッタラの言ったことを覚えているか。あいつはおまえに、怯えるなと言ったはずだ」

レボラックがベッタラに向かっているので、呪文を唱えなくともよくなったマミカリシドラスラオネザは、セシルに言った。

「おまえたちは今、ベッタ・ラとは一心同体。ベッタ・ラは、おまえたちの依代となって戦っている。すなわち、おまえたちが怯えれば、ベッタ・ラも怯む。――儀式は失敗するかもしれぬ」

「――え」

マミカリシドラスラオネザが、まっすぐに井桁のほうを指した。

「おまえが怯えつづけたままでは、ベッタ・ラが反撃に出ることができぬ。逃げ続けるままでは、ベッタ・ラの体力が持つまい」

 

「あっ――」

ネイシャが声を上げた。

ベッタラが、がくりと膝をついた。そこへ、巨大な角が突き刺さる。ベッタラはかろうじて避けたが、最初に比べたらずいぶん、動きがにぶくなっていた。

「セシル――怯えるなというのは無理な相談かもしれん。だが、このままではベッタラが死ぬ」

「……! ……!」

セシルは声にならない息を吐き、顔を覆って泣き崩れた。

 

あの獣は、セシルたちの代わりにベッタラを襲っているのだ。

けれどもセシルは恐ろしかった。セシルを呪った、男の断末魔の顔が、まざまざと脳裏によみがえる。

自分は、彼に呪われても仕方のないことをしたのだ。

セシルは若かった。夫となるはずだった男も、若かった。

若さゆえに、周りが見えなかった。

セシルはどこかで、自分が呪いを受けたのも仕方ないと思っていた。

諦めていた。

自分が呪いのために一生苦しむのは、罪滅ぼしなのだ。

自分たちのせいでみんな死んでしまったのだから。

どんなに後悔しても後悔し足りない過去――でも、ネイシャに罪はない。

 

「お願い……ネイシャだけは助けて。あたしは、どうなってもいいから……」

セシルの悲痛な声に、ネイシャは、熱でうるんだ目に強靭な決意をみなぎらせた。

 

「あたしが行く!」

ネイシャが祭壇を飛び出すのを、だれも止められなかった。高熱でふらついた少女は、走りだしたとたんに足がもつれ、何度も転んだが、それでもベッタラのほうへ向かっていく。

「あたしは、あたしはっ……でかくなって、おっきな、傭兵グループをつくるんだ……!」

ネイシャは、コンバットナイフを握りしめて、レボラックに向かっていった。

「負けてたまるかあっ!!」

「ネイシャ!!」

セシルは娘を止めようと必死に手を伸ばしたが、すくんでしまった足は、びくとも動いてくれなかった。

「ネイシャ、ネイシャ、ネイシャ……!!」

セシルは、腕だけで這いずり、祭壇から転げ落ちた。バジが慌てて支えたが、振り払い、動かない膝でにじりよりながら前に進み、号泣して地に伏せた。

「ネイシャ――!!」

 

もう、許しておくれ。

 

セシルは腕を地に打ち付けて咆哮した。レボラックとおなじ咆哮を。

 

貴方も苦しんだ。私も苦しんだ。

貴方も、愛する息子を殺されて、家族も殺されて、すべてを失った。

私も、ネイシャ以外はすべてを失った。

ネイシャは、あなたの息子の子でもあるんです。

どうか、ネイシャだけは助けて。

 

セシルの祈りもむなしく、セシルは目のまえで、ネイシャの小さな身体が空中を舞うのを見た。レボラックの角に、高々と弾かれて。

セシルの絶叫が、天を突いた。

彼女は立ち上がっていた。コンバットナイフを両手でつかみ、泣き叫びながら、レボラックに向かっていった。

セシルの身体を衝撃が襲った。セシルは地面に叩きつけられ、倒れ伏したまま、見えない目で、ネイシャの身体をさがした。

――意識を失うまで。