「いいね。今夜はそっとしておこう。明日の朝も、カレンから何か言ってくるまでは、この本のことは口にしない」

クラウドの提案には、状況を把握できていないミシェル以外、皆が承知した。

「カレンが言っても言わなくても、ぜったいになにか起きる。しばらくニュースに張り付かなきゃならねえぞ」

グレンが嘆息とともにつぶやき、

「セルゲイがいっしょに来なくてよかったな。あいつ、カレンのことになると神経質なトコがあるからな」

「……セルゲイには、見せるのか、コレ」

アズラエルが本を指した。

「黙ってるわけには、いかないよね」

みんなが黙っていても、いつか知れることだ。それも近いうちに。

 

けっきょく本は、みんなそろって購入した。アズラエルはルナが買ったので買わなかったが、グレンまで、自分で買ったその本を、車内で読み始めた。

クラウドはルナを脅した罰として、ルナとミシェルにアイスをおごることを余儀なくされた。クラウドに罰則を科したのはミシェルだったが、一冊の本のせいで、急に不穏な空気を出しはじめた男たちの空気に飲み込まれまいとする対策だったかもしれない。

「その本……やばいの」

「やばいです」

ミシェルは、クラウドが車内で読みだした本を指さして言い、ルナはそれしか答えられなかった。

明日、カレンは起きてくるだろうか。朝食に顔を出してくれるだろうか。

ZOOカードが動かない今、あとはたまに見る夢だけがルナの最後の手段だったが、その夢も、ルナが見たいときに見られるとはかぎらない。

ルナは万策尽きて嘆息し、車窓から見えるネオンを眺めた。

 

 

 

 

 自分は、どうやら泣きつかれてそのまま眠ったらしい。

 カレンがそう思ったのは、はっと目覚めたらパソコンのまえに突っ伏していたからだった。

いつの間にやら窓の外が真っ暗で、カレンはカーテンを閉めようと立ったときに、その違和感に気付いた。

 自分の手が、おかしなことに蹄だ。おまけに、フローリングのゆかが遠く感じる――と、窓を見たところで自分の姿に仰天した。

窓ガラスに映っているのは、キリンだ。

どうにも、首が長いために足元が遠く感じたのか。シャツを着て、ジーンズをはいたキリンがガラスに映っている。

そこでカレンは、やっと自分が夢を見ていることに気付いて笑いたくなった。

せっかく母親の伝記を読んだのだから、母親が夢に出てきてもいいような気がしていたのに、まるでこの夢は、現実の続きだ。カレンは、目をぱちくりさせながら、パソコン机にもどって、またびっくりする羽目になった。

パソコンの隣に、十五センチあるかないかといった、ピンクのうさぎのぬいぐるみが立っていたからだ。

「座って。キリンさん」

ぬいぐるみが喋るなんて。

カレンは思ったが、夢とはこういうものだろう。不可解で、信じられないことが起きるもの。カレンは素直に、パソコンの前に座った。なにはともあれ、このピンクのウサギは可愛い。

(なんか……ルナみたいだな)

カレンがそう思いながらうさぎを見つめていると、パソコンの画面がぱっとついた。

 

「これはだあれ?」

パソコンの画面にあるのは、おかしな幾何学模様と、バラの絵と、アルファベットの羅列だ。

 

(なんだこれ?)

カレンは首を傾げ、しばらく考えてから、これがタトゥの模様であることに気付いた。

 「これ――オルティスのタトゥ?」

 

 カレンはパソコン画面を指さして答えた。

ラガーの店長は全身タトゥだらけだが、最近、ヴィアンカの名前と、まだ見ぬ赤ん坊の名前まで彫り入れた。男でも女でも、ヴィヴィアンと名付けるつもりらしい。両肩から肘にかけて、ヴィアンカとヴィヴィアンの名前を彫っている。

 「正解!」

 ウサギが拍手した。ウサギがちいさなもふもふの手でエンターキーを押すと、次の画面にうつった。

 

 「これはだあれ?」

 ドラゴンを模したような、トライバル。

 「コイツは簡単だ。アズラエルだよ」

 カレンはまたも正解した。その次は、グレンのタトゥ。どこにでもある幾何学模様。

 その次は、太陽の中から、小鳥が顔を出している形。

 「コイツは確か――ロビンだ」

 「正解! すごいね、さすがだわ」

 チャンの、真っ赤な龍のタトゥ。バーガスの炎のようなトライバル。レオナの蝶……。

 カレンは次々と画面に現れるタトゥの持ち主を当てていったが、最後の模様で、つまってしまった。

 

 観音開きの窓が開いている。中は真っ黒で、舌を出したガイコツが中央に浮かんでいる。窓の扉には二匹の蛇が巻き付いたデザイン。Welcome to Hell!の文字。

 傭兵やチンピラにはめずらしくないデザインだ。カレンはどこかで見たことがあると思ったが、持ち主が思い出せない。

 

 「これはだあれ?」

 無邪気に首をかしげるピンクのウサギ。

 「だれだったかな……」

 カレンは必死で思い出そうとした。

 

 「これは、だあれ?」

 

 ピンクのウサギの問いに答えようとして、カレンは今度こそ本当に目が覚めた。

朝だった。半分開いた窓から、健やかな朝風が吹き込み、閉め忘れたカーテンを揺らしていた。

カレンは、パソコン前に突っ伏していた体勢から起き上がった。

 (あたしは、なんて答えようとしたのだっけ?)

 起きるまえはたしかに名前を思い出して、ウサギに答えを言おうとした。だが、起きた今は、すっかり忘れてしまっている。

 カレンはタトゥの形をしっかり覚えていた。パソコンのそばにあったメモ用紙に、さっと形を描いてみる。それを持って、カレンは階下へ向かおうとしたが、時計は午前五時を指していた。朝食には、まだ早い。カレンはシャワーを浴びに行こうとそっとドアを開けた。ドアちかくの棚に、昨夜ルナが作ってくれた夕食が置いてあった。

 (――ルナ)

 カレンは部屋に戻って、冷え切った夕食を食べたが、じゅうぶんに美味しかった。

 (あんたのごはんは、冷えててもあったかいね)