「――あたしの、担当さんになるところだったんですか?」

 ルナはびっくりして、カクテルをめのまえに差し出されても気づかないでいた。

 「うん。でもね、このとおり、手にも震えが来てしまって、自分の名前さえまともに書けなくなってしまった――ついに引退さ」

 アンソニーは、震える手でグラスを口元に持っていった。

 

 「ここに、住まいを?」

 アズラエルが聞くと、アンソニーはうなずいた。

 「地球が好きだから、地球で暮らしても良かったんだが。ぼくは、人生の大半をこの宇宙船で過ごした。だから、終の地も、この宇宙船にしようと思って」

 アンソニーは海の方をながめて言った。

 「派遣役員になって、ずいぶんたくさんのひとの担当になったが、K25区のひとの担当になったことはなくてねえ――じつは、何十年も担当役員をしていながら、ぼくがこの地に足を踏み入れたのは、去年がはじめて。つまり、終の住処をこことさだめたときだ」

 「地球に着いたときは、ここと同じ街に滞在すると聞いたが」

 「おや、君はよく知っているね」

 アンソニーは、本気で驚いたように目を丸くした。

 「なかなか、知らんものだよ――君には、親しい役員が?」

 「まァ――たまにいっしょに呑むくらいは、仲がいい」

「そうか、そうか――なかなか、派遣役員と乗客が親しくなることはないが、君とは気が合ったんだな――素敵なことだ」

 それからしばらく、雑談をした。主に、K25区の話だ。ルナが、昼間は行けなかった灯台に、あす帰るまえに寄ってみたいという話をすると、アンソニーが言った。

「灯台のちかくにはノワの墓がある。ノワを知っているかね?」

 

 「“ノワ”?」

 ルナとアズラエルが、同時にその名を口にした。二人とも知っている――こちらもめずらしいことだった。

 

 「ノワって、L系惑星群の各地を放浪して、あちこちで奇跡を起こしたっていう、L05の僧侶だろう?」

 「L77の、あたしんちのちかくの真月神社にも、ノワの銅像が立ってるよ! あの神社に、いっぱいバラを咲かせたのはノワなんだって!」

 「うん。――各地に残っているね、ノワの伝説は」

 

 “ノワ”の本名は、不明だ。地球の古語で、「新月」を意味する、「LUNA NOVA(ルナ・ノワ)」から来ていると言われる。

 千年以上前に生きたL05の僧侶ということくらいしか、分かっていない。世界を放浪して、各地で奇跡を起こし、ひとびとを救った。

そのために、辺境惑星群から、鉱山区の惑星群まで、あちらこちらにノワの伝説が残っているのだ。

 ノワが杖で突いたところから湧水が出てきて湖になったとか、鉱山から宝石が産出されるようになったとか、不治の病を治したとか、そのエピソードは枚挙にいとまがなく、L系惑星群のあちこちに記念碑や銅像が建てられ、終焉の地だと言われる場所も、墓も、あちこちにあって、はっきりしない。

 

 「おかしいよ? ノワが生きてたのは千年よりずっとまえで、そのころには、地球行き宇宙船はなかったよ?」

 

 「そのとおりだ」

 アンソニーはうなずき、

 「だがね、たしかに、このK25区に、ノワの墓があるんだよ――そう、あの灯台のふもと」

 「えっ?」

 ルナは思わず、アンソニーが指さした灯台の方を見た。

 「地球行き宇宙船には、二ヶ所、ノワの墓があると本で読んだ。ひとつは、このK25区の灯台のふもと。もう一ヶ所は、ぼくもいまだに見つけられないんだが、どうやら、K19区にあるらしいんだ」

 

 「――K19!?」

 ルナのウサ耳がぴーん! と立った。

 

 「そう、K19区。K19区担当の役員というのは、特殊でね、ぼくは、なんの資格もないただの派遣役員なものだから、K19区の子の担当になったことはない。だから、K19区もあまり出入りしたことはないんだが、ノワの墓を探しに何度か赴いた。だが、いまだに、どこにあるか分からない」

 「……」

 「たしかに、ノワが生きた時代は、この宇宙船ができるずっと昔だ。だが、彼の終焉の地は、きっと地球だった――そう考えると、ロマンがあるだろう?」

 

 「考えられなくは、ねえな」

 アズラエルはうなずいた。

 「こういう宇宙船ができて、一般人が地球とL系惑星群を行き来できるようになったのが、千年前だとしても、地球とL系惑星群との往来は、もともと、地球人がL系惑星群に移住したときからあった」

 「そうだよ! だから、千五百年もの大昔、ノワが最後の地を求めて地球に向かったとしても、不思議はない」

 「終焉の地が地球だから、地球の居住区に似たこの区画に墓があるって――そういうことか?」

 「そう考えるのも、楽しくないかね」

 アンソニーは浮き立つ声音で言った。

 「――なるほど」

 ルナはぴょこたんとうなずき、やっとカクテルに口をつけた。

 

 「ノワは、“新月”を愛した――だから、“LUNA NOVA”(ルナ・ノワ)と名乗った」

 アンソニーは、月のない星空をながめて、つぶやいた。

 「君の名前といっしょだ。“ルナ”さん」

 「……うん」

 

無限の星がちりばめられているこの宇宙船の夜空は、宇宙をそのまま映している。月がないだけで、光景はルナたちの星と同じだ。たまに、巨大な惑星がよぎっていくのを見ることがあるし、彗星も頻繁に観察されるが――。

 

 「新月とは不思議なものだよ――ルナさん。夜には見えない。月が消えたわけでもないのに、人の目には見えないのだ」

 「うん」

 「月は、姿を変える。満月になったり、三日月になったり、上弦であったり、下弦であったり――そして、完全に姿をなくして、新月になったりもする」

 「……」

 「星空の中に、月は見えない。だが、つねにそこにある。月は、消えてはいないのだ――まるで、ノワの生き方そのものだ」

 アンソニーは、震える手でグラスをつかんでいたが、やがてゆっくりと、中身を干した。アズラエルが彼のグラスに二杯目を注ぎ足そうとしたとき、昼間アンソニーといっしょにいた女性が、迎えに来た。

 

 「アンソニーさん、もう休まないと――あら、昼間の方々」

 ヘルパーは軽く会釈をした。ルナはぴょこんとお辞儀をし、アズラエルは「どうも」と言った。

 「そんな時間かね!?」

 アンソニーは、信じられない顔で腕時計を見遣った。だが、「そんな時間」だった。彼は名残惜しそうにルナたちを見つめ、それから酒を見つめた。

 「いや、じつに楽しい時間を過ごした」

 彼は再び、孫のような年のヘルパーに支えられて立ち、上下にぶれる手で、ルナとアズラエルと、握手をした。ずいぶんな時間をかけて。

 

 「ありがとう――ふたたび会うことができるかわからないが、元気で」

 「こっちこそ、楽しい時間をありがとうございました」

 「達者で」

 「君たちに会えてよかったよ――いや、よかった」

 ルナとアズラエルもアンソニーの手をしっかりと握って挨拶をし、彼が手を振り、白い石畳の向こうに消えていくのを見守った。

 

 (――一度だけ)

 導きの子ウサギは、「彼に会えるのは一度だけ」と言った。彼には、もう会えないのだ。ルナはちいさくなっていくアンソニーの背を見つめながら、思った。

 

 (LUNA NOVA……)

 

 



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