その夜、ルナを外に誘い出したのはアズラエルの方だった。

ホテルのコンシェルジュに、夜の街も幻想的でうつくしい、というのを聞いたルナが、そわそわウサギになりはじめたからだった。このままでは、スムーズに、ベッドに入ってエロ展開、とはいかないだろう。アズラエルは、深夜以降を、思う存分エロ展開にするために、ルナの気がすむまで夜景を見ることにした。

昼間買った、ロングワンピース姿のルナは、はしゃぎながらホテルから、街中へ繰り出した。

 たしかに、街を形成する白い土壁にはちいさな明かり窓がついていて、あちこちで灯された火が幻想的でうつくしい。気温が下がって、すがすがしいくらいの海風と、きらめく波間――さざなみの音。景色はこれ以上ないくらいすばらしかった。

 

 「――あ」

 「おや」

 

 昼間来た休み場に、アズラエルが席を譲ったおじいさんがいた。彼は昼と違って、ずいぶん軽装だった。シャツに木綿のパンツ、サンダル履きだ。

 彼は、ここの住人かもしれないと、ルナは思った。

 「夜のお散歩ですか。ここは夜も素敵でしょう」

 おじいさんの方から話しかけてきた。ルナが「はい!」と返事をすると、

 「どうかね、一杯」

 とグラスを掲げてみせた。彼が持っているうつくしい切子のグラスには、琥珀色のお酒が入っている。

 「ルナは飲めねえから、べつのものを。俺は頂こう」

 アズラエルがおじいさんの向かいに座り、ルナは海が真正面に見える席に座った。おじいさんが、海側の壁にあるちいさな鐘を鳴らすと、ちかくの店舗から、誰か出てきた。

 「ご注文ですか」

 「あ――じゃあ、こ、これ」

 ルナはメニュー表にあった、ブルーのグラデーションがうつくしいカクテルを注文した。

 

 おじいさんは、震える手で、もうひとつ用意してあったグラスを引き寄せた。おじいさんの手があまりに覚束ないので、アズラエルが、「俺が注ごう」と手を出したが、「いやいや、最初は、私が」と言って断った。

 「ちょっと手が震えるがね、ゆっくりやれば、たいてのことはできるんだよ――昼間はありがとう。ぼくは、アンソニー・K・ミハイロフといいます」

 「俺はアズラエル・E・ベッカー。こっちは、」

 「ルナ・D・バーントシェントです!」

 

 「ルナ・D・バーントシェント?」

 ルナが自己紹介をすると、アンソニーは驚いた顔をした。

 「ルナさん? ルナ・D・バーントシェントさん?」

 もう一度繰り返してから、

 「お友達は、ミシェルさんとか、キラさんとか、リサさんという名前では?」

 

 ルナとアズラエルは顔を見合わせた。

 「そ、そうですけど――なにか」

 「そうか! そうかね――なんという偶然だろう」

 アンソニーは愉快そうに笑った。

 「ぼくは派遣役員です――去年引退したばかりのね」

 震える手で、やっとアズラエルのグラスに酒を注ぎ、アズラエルがグラスを持ったところで乾杯した。

 「役員さんですか!?」

 ルナは叫んだ。

 「うん――引退しなかったらねえ、君たちの担当になるはずだった――いやはや、まさか、こんなところで会うとは」

 ルナとアズラエルは目を見張った。

 

 

 

 「アンソニーの住所を、教えてほしいのです」

 中央役所――派遣役員の執務室では、カザマがL55のE.C.P本社と、通信していた。カザマのデスクにあるモニターには、通信相手の役員の、つかれた顔が映っていた。

 「先日、宇宙船が“境界”を超えました。これからは、L55の本社とこちらを往復するのに、どんな速い便をつかっても、五ヶ月以内に往復できません。私がL系惑星群にもどるようなことが起きたなら、そのあいだのルナさんたちの担当役員は、アンソニーしかいないとわたくしは考えます」

 カザマは、ずいぶんな熱心さで、電話向こうの本社役員を――派遣役員の交代や、補助、移動を担当する役員――を説得していた。だが、彼から返ってくる返事は、相変わらずためいきだった。

 

 『ミヒャエル』

 彼は、カザマが彼を説得するのと同じくらいの熱心さで、カザマを説得しようとしていた。

 『何度も言うが、彼はもう引退した――休ませてやりなさい。いくつだと思っている。もう八十七歳だぞ? 定年はとうに越している』

 「この宇宙船の役員に、定年などあってないようなものでしょう」

 『……ミヒャエル、君のいうこともよくわかる。君の担当船客であるルナ・D・バーントシェント――彼女の近辺には、地球行き宇宙船創設以来、類を見ない、数々の難事が起こっている。だとすれば、君の代理人は、やはり特別派遣役員がふさわしい。L03出身の特別派遣役員を手配しよう。アンソニーは、もう、休ませてあげなさい』

 

 「――ですが、」

 カザマは言いつのった。

 「最初、真砂名の神が命じたルナさんたちの役員は、アンソニーでした。アンソニーの引退申請がとおらなければ、彼はルナさんたちの担当をしていたでしょう」

 『申請はとおった。それが真砂名の神のご意志では?』

 電話の相手は、くたびれた様子で言った。

 『ミヒャエル。気の毒だとは思わないのか。長年の激務で、彼は手が震えて、字も書けなくなっているんだぞ。そんな年寄りに、まだ仕事をさせようというのか』

 

 「……」

 カザマがやっと黙ったので、彼は口調を和らげた。

 『そもそも、今のところ、君がこちらにもどるような用件は存在しない。だが、念には念を入れるという、君の考えは正しい。こちらで、特別派遣役員を一名手配する――なるべく急ぎで向かわせるから、三ヶ月程度で着くだろう』

 カザマからの返事はなかった。彼女が納得していないのは、彼にはわかっていた。

 『君の熱心さと勤勉さはみとめる。だが、引退した病の老人を、現場に引きずり出すのは感心しない』

 彼は、くぎを刺しておいた。なんにせよ、アンソニーは地球行き宇宙船内にいるのだ。カザマの様子では、探し出して、直接彼に頼みに行くこともじゅうぶん考えられた。

その行為は、決して違反ではないが、宇宙船にカザマがいなくなるたった五ヶ月間の代理とはいえ、彼に重責を負わせることは変わりない。それは気の毒だと、彼は思った。アンソニーのことだから、熱心に頼まれれば引き受けてしまうだろう。

アンソニーは高齢と病のため、昨年、やっと派遣役員を退職した。

これでも、何年も前から退職願いは提出されていたのだ。だが、アンソニーの“経歴”ゆえに、退職願いはなかなか受理されなかった。地球行宇宙船は、彼を必要としていた。やっと昨年、その申請がとおったのだ。

 

 「……わかりました」

 カザマから、ようやく返事が返ってきた。

 「では、代わりの特派を、どうかよろしくお願いいたします」

 そういって、カザマは通信を切った。説得にくたびれた男が、ためいきをついて受話器を置いたのに、後ろの席の男が苦笑した。

 

 「ミヒャエルかね」

 「ええ、まァ、そうです」

 

 カザマの相手をした役員は、疲労困憊といった様子だ。後ろの席の男は、労をねぎらった。彼は二時間も、カザマを説得し続けていたのだ。

 「気持ちは分からないでもないがね――なにしろ、ミヒャエルの担当の子は、L03の予言に出た人物なんだろ?」

 「そうです」

「たしか、このあいだも、事件があったな。L20の首相の――だれだったか」

 「カレン・A・マッケランですか」

 「そう。暗殺騒ぎがあったとかで――その子と一緒に暮らしていたんだろう? 真砂名神社でのできごとといい、その子の身辺には、いろいろ起きすぎる」

 「だからといって、アンソニーが気の毒ですよ」

 疲労した彼のために、上司である男は、廊下にある自販機で、コーヒーを買ってきてくれた。彼は礼を言って受け取り、

 「アンソニーは、なかなか引退させてもらえなかったと聞きます。もう五年も前から届けは出してるのに。もう八十七歳ですよ? 五年前ったって、八十二歳でしょ? わたしの爺さんより、年上だ」

 

 「仕方ないさ」

 上司は苦笑した。

 「なにせ彼は、“地球到達率100%”の、奇跡の役員だからな――」

 



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