「降りるんだって?」

 ラガーの店長は、黒ビールをアズラエルのまえに置いて、しごく軽く、そう言った。

 「ああ」

 今日は、アンのショーはやっていないようだ。アンはガンの治療をしながらステージに立つので、体調の悪いときは、店に出られない。

 「アンさんのショー、もう一度見てから降りたかったな」

 「だっておまえ、すぐもどってくるんだろ。役員になって」

 「……」

 サルーディーバは重すぎるが、コイツは軽すぎる。

 「でもまあ、よくここまで乗ったよ。傭兵がここまで来るって、なかなかねえよ。でも、地球まで行けば、けっこういろいろ免除になるのに、残念だったなあ」

 「……ああ」

 「お前が派遣役員かあ……想像できねえな」

 「気が早えよ。それより、俺が役員になるまで、店をつぶすなよ」

 オルティスは笑った。

 「そりゃ、お前次第だな。いつまでも合格しなけりゃ、俺がヨボヨボになって引退しちまう」

 客に呼ばれた店長が、そちらへ行くのを見て、アズラエルはビールに口をつけた。

 屋敷に帰らなくなって三日。

 探査機というものの存在がありながら、クラウドですら、アズラエルに接触して来ようとしなかった。

 アズラエルとしては、ほっとしていた。なにがあろうが降りることは決めているが、クラウドあたりは、しつこいから――。

 

 「おい」

 そして、よりにもよって、アズラエルを追って来たのが、この男だったとは。

 アズラエルは意外だった。

 「なんだ、てめえ」

 アズラエル同様、口の端が切れた男、グレン。お互い、カウンターパンチで沈めあうところだったのだから、似たような箇所が切れていて、おそろいだ。似たような面を突き合わせるのは、アズラエルにとってもグレンにとっても不愉快なのは間違いないのに、なぜ、この男は来た。

 

 「もどれ」

 グレンは前置きもなく言った。ペリドットのようだ。

 「ルナが泣き止まねえ――見てられねえんだよ」

 

 おまえのためではないと、グレンははっきり言った。

 アズラエルが出ていった日から、ルナは泣き止まない。必死で笑顔を見せるが、それが痛々しくてならない。

 「降りるなら降りるでしかたねえが、せめて、降船の日まで屋敷にいろ」

 グレンは苦々しげに言ったが、アズラエルは、返事すらしなかった。だまって、席を移動しようとする。グレンはさすがに腹が立って、アズラエルの腕をつかんだが、なんとか怒りは鎮めた。

 今回ばかりは、派手なケンカをするわけにはいかない。なんとしても、アズラエルを説得して屋敷へ連れ帰らねば、ルナが崩壊する。

 「クラウドがしつこくてイヤなら、俺とセルゲイでだまらせる。エーリヒもいる。だから、帰ってこい」

 グレンの口から、帰って来いという言葉が出るとは。

 アズラエルも、おどろいたし、グレンもおどろいていた。だが、アズラエルは、「うん帰る」とは言わなかった。

 

 「……おまえが慰めればいいだろ」

 「……!?」

 グレンは、目を剥いた。アズラエルの口から出た言葉にだ。

 「おまえでも、セルゲイでもいい。――ルナをものにするチャンスがようやく巡ってきた。うれしいだろ」

 「てめえは……っ!!」

 ふたたび、怒りに眉を吊り上げたグレンがアズラエルの胸ぐらをつかんだ。

 「おい、待て!」

気づいたラガーの店長があわてて寄ってきたが、グレンの拳を止めたのは、オルティスではなかった。

 

 「あじゅ……?」

 

 ルナが、ラガーの扉を開けて、入ってきたのだ。目を真っ赤にして、化粧でもごまかせないほど、泣きはらした顔で。

 外は寒い。なのに、ルナはコートも着ていなかった。ワンピース姿で、素足が寒そうだ。

 (ルナ――)

 どうしてここに、と思う前に、抱きすくめたい衝動に駆られる。

 アズラエルはすぐさまルナに駆け寄って、抱きしめて、暖めてやりたいのを、想像を絶する自制心でこらえた。

 (怖かったはずだ)

 ルナは、K34区の界隈を怖がっていた。とくに、夜に来るのは。

 アズラエルも絶対行かせなかったし、ルナも行きたがらなかった。

 でも、アズラエルに会いたくて、来たのか、ひとりで。

 怯えながら――寒さに、震えながら。

 どうしてだれも止めなかった。

 グレンの顔を見ていれば、ルナが一人で来たことは分かる。

 

 「アズ」

 アズラエルを見つけて、ルナの顔がほころぶ。アズラエルは、目をそらした。

 (笑うな)

 

 ――俺を見て、そんな顔で笑うな。

 

 アズラエルは、ルナが一歩、二歩とこちらへ歩み出したとたんに、動揺したように紙幣をカウンターに置き、店を出た。

「アズ――」

「待て! アズラエル!」

ルナがふらふらと追おうとするのを止め、グレンがアズラエルを追った。ラガーの外へ出る。

 外は、雨雪が降っていた。今年初の雪だ。

 「アズラエル!」

 グレンの大声が、アズラエルの足を一瞬、止まらせた。

 

 「アズ」

 ルナも外に出てきて、駆け出して――雪に滑って、転んだ。ワンピースは、水分と泥を吸って、びしょびしょになった。グレンがあわてて助け起こす。

 ルナは顔についた泥もぬぐわず、言った。

 「アズ、あたしね――アズがいたから、こんなに強くなれたの」

 ルナの声は、かすれていた。ここ数日、涙も枯れるほど泣き続けて、かすれた声が。

 



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