エタカ・リーナ山岳の中腹で、ヒュピテムは、平野のほうへ降りていく、謎の光の壁を見た。

 おちたときに、頭を打って意識を失ったダスカを抱え、自身も、いたむ右足を引きずりながら、膝まで埋まる雪の側面を、降りていた。

 

 「あれは――」

 光の壁は、ゆっくり倒れるように、地面に沈んでいく。ヒュピテムは、目を疑った。

平野に敷かれたのは、あまりにも巨大な、チェスの盤だ。

 ゴコ……っ。

 山岳が、揺れた。

 「うわっ!」

 ヒュピテムたちは再び、雪とともに、山を滑り降りた。

巨大な石柱が、山を下りてくる。光の壁の上を、すべるようにして――。

 ひとつが、城ほどもある石柱だ。

 ヒュピテムのそばを、石柱が、雪を噴き上げて滑り落ちていく。

 シェハザールたちがいた洞穴にあった、不思議な石柱と同じ色だが、形はちがう。ヒュピテムには、見たことがあった。

 (シャトランジのハイダク)

 王宮にあった、シャトランジの駒だ。

 歩兵の駒は、整然と、横一列に、盤に並んだ。

 (なんだこれは)

 ヒュピテムは、愕然とした。

 シャトランジに、市松模様の盤などなかったはずだ。市松模様の盤を必要とするのは、チェスのみ。

 

 平野に敷かれていくシャトランジの盤に、目が釘付けになっていたヒュピテムだったが、整然とならぶハイダク八基の後ろに、不思議なものを見つけた。

 ハイダクを形作る石柱と同じ、宇宙の結晶のごとき、細長い石柱。山岳と同じ高さもあるそれは、頂点に――洞穴があったあたりと同じ位置に、ひとがくくりつけられている。

 ヒュピテムは目を疑った。

 見覚えがあったのだ――そのひとの姿に。

 

 「マリアンヌ、さま?」

 

 まさか、あの方は、もう亡くなったはずだ。

 

 シェハザールも、シャトランジの洞穴から、石柱に、生け贄のようにくくりつけられたマリアンヌの姿を見て、信じられない顔で、まろび寄った。

 「マリアンヌさま……マリー!!」

 シェハザールは絶叫した。

 「なぜだ……? 生きていたのか?」

 そんなはずはない。彼女は、地球行き宇宙船で亡くなったはずだ。だが、シェハザールの真上にあるのは、まさしく、肉体を持った人の姿だ。

 「マリー!!」

 「シェ、ハ? ……さま?」

 マリアンヌだ。まちがいなく、マリアンヌだ――。

シェハザールが涙をこぼしかけたその目でとらえた彼女の姿は、――L18の牢獄から助け出されたときと同じ、見るも無残な姿だった。

 「シェ……」

 もういちど生きてあえるとは思わなかった。

マリアンヌは、そう言っているような気がした――たしかに彼女は、シェハザールを見て、うれしげに微笑んだ。

 「待て! 今、助けてやる!」

 シェハザールが叫んだとたん、マリアンヌの口から、するどい叫びが上がった。

 

 「やめろ!!」

 シェハザールは、血を吐くような思いで石柱に駆け寄った。マリアンヌの足先から、血が零れ落ちて、シェハザールの頬を濡らした。

 

 ――おまえたちの考えていることなど、お見通しだ。

 

 ラグ・ヴァーダの武神の声が聞こえた。

 

 ――わたしを、地球の神に討たせるつもりなのだろう?

 

 シェハザールの目頭から、マリアンヌの血とも、自身の血涙とも、判断がつかぬものが流れた。

 

 ――残念だが、アストロスの兄神は、わたしの策略に嵌まって、船を降りた。奴らの力は削がれた。おまえは、おとなしくシャトランジを起動しろ。

 

 「ぐはっ!!」

 シェハザールは、洞穴まで吹っ飛ばされ、座席に座らせられた。

 

 ――最初の計画通り、アストロスを全滅させ、メルーヴァ姫を手に入れて、ラグ・ヴァーダへ帰還する。

 

 「マリアンヌさまを巻き込むのはよせ……!」

 

 ――これは人質だ。おまえが、シャトランジに怯まぬように。それと、

 

 まるで、メルヴァとそっくりな面影を宿した、体格の良い男が、雪原に立っていた。本物なのか、幻なのか、シェハザールには分かるすべもない。

 ラグ・ヴァーダの武神だ。

彼が再び手の先を動かすと、マリアンヌの悲鳴が上がった。

 「やめろ!!」

 

 ――おまえが無事つとめを果たせば、この娘をよみがえらせてやろう。肉体を持ってな。だが、よけいなことを考えれば、お前もこの娘も、贄として滅ぼす。

 この娘は、もういちど、あの苦しみを味わうことになるだろう。

 

 ラグ・ヴァーダの武神は、高らかに笑った。

 叫びかけたシェハザールだったが、身体は椅子に拘束されたまま動けず、声も出なかった。

 

――おもしろいものをつかっているようだから、こちらも使わせてもらう。

 

 マリアンヌの足元には、黒曜石でできた、化粧箱があった。それがなにか、シェハザールにもわかった。

 彼女が生きているうちは、一度もつかわれたことのなかった、彼女のZOOカードだった。

 「セリャド(封印)――」

 マリアンヌの口から、血と一緒に、呪文が零れ落ちる。

 

 「え!?」

 真砂名神社奥殿で、回帰術の用意をしていたペリドットとアンジェリカが、急に動きを止めたZOOカードに、戸惑った。

 「ZOOカードが……!」

 「落ち着け、アンジェリカ」

 ペリドットは、いきなりふたが閉まった箱に、手をかざした。鎖が、巻き付いている。

 「だれかが、セリャド(封印)をつかったな」

 「――え!」

 

 エタカ・リーナ平原では、サスペンサー隊が、混乱を極めて逃げ惑っている。

 滅亡の、カウントダウンが、はじまった。





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