包装紙や紙袋たちを片付けたリビングで、ふたりはささやかな夕食をとった。メニューはエルドリウスの作ったシチューとパンと、大皿のサラダ。それからワイン。サラダの皿にチーズがあるのをフライヤは見て、今日はチーズ尽くしだな、と小さく笑った。

 「エルドリウスの作ったシチュー、美味しい」

 「それはよかった」

 お世辞ではない。食べたことのない味で、食べたことのない肉が入っていたが、味は美味しかった。肉も良く煮込まれていて、ほろりと崩れて柔らかい。ビーフ・シチューに似ている。

 

 「バラディア公と帰路が一部重なってね」

 エルドリウスはサラダを取り分けながら、言った。

「バラディア公の私用機に一緒に乗せてもらったから、思いもかけず早く着いた。予定より三時間も早く着いたよ。材料やサラダを買いに行って、シチューを煮込む時間もあったのさ。君に気にいってもらえてよかった。これは私の故郷の味でね、そう、L85の」

謎のシチューの正体は、フライヤが聞くより先にエルドリウスが語った。

「バリバリ鳥という鳥がいてね、その肉と血を煮込んだシチューだよ」

「ち……っ!?」

フライヤは噴きそうになった。その顔を見てエルドリウスがクックと笑った。

「私の故郷ではずいぶんなご馳走だ。私もまさかL20のスーパーにこの鳥が売っているとは思わなくて驚いたが、いつも仕入れているわけではないらしい。今日の私はラッキーだったんだな。バリバリ鳥の肉は滋養強壮によくて、血は民間療法にも使われている。血はね、君が想像しているより生臭いものではない。赤ワインのような芳香がするんだよ。肉のほうは癖があるが、香草でだいぶ肉の臭みは消している」

「シチューはほんとに美味しいです……血って、聞かなかったらもっと」

エルドリウスは、おかしげに笑った。

 「セロリが入ったのは、私のオリジナル。味付けもね。本場は、イモがあれば一緒に煮込む程度で、トマトもキノコも入れないし、もっと肉の臭みが強い」

 「そうなんですか……」

 今日はいつもより、エルドリウスと会話をしているような気がする――今までは、エルドリウスが場を繋ぐように話をして、フライヤは相槌をうったり、質問に返事をしているくらいだったが――。

 フライヤは、その空気に押されるようにして、言った。

 

 「エ、エルドリウス、あのね」

 「うん?」

 「……あたし、あの、アイリーン隊長と、おともだちになりました……」

 今度は、エルドリウスがワインを噴く番だった。フライヤはさっき、すんでで堪えることができたが、エルドリウスは「ぐふっ!」とやった。

 自慢の口髭がワインに汚れるのを見てフライヤは慌ててナプキンを差し出したが、エルドリウスは自分のナプキンで拭った。

 

 「――昨日の今日で、なにがあったの?」

 エルドリウスは、そう聞くほかなかった。フライヤは、きのう大層おびえた様子で、エルドリウスに電話してきたのだ。アイリーンが原因で。たとえ寂しくても、一回も電話をしてこなかった意地っ張り――いや、遠慮がちなこの女の子が。

 

 「はあ、それはおいおい……それでちょっと、聞きたいんですけど、エルドリウスさん」

 またさん付けに戻っているよとか、聞きたいのは私の方なんだけどねという意見を、エルドリウスは大人の理性で飲みこんだ。

 「なんだね」

 「アイリーン隊長は……その、エルドリウスさんに近づきたいから、私と仲良くしたいんでしょうか?」

 「……」

 

 それは、ない。

 

 エルドリウスはコンマ一秒で解答を導き出した。

 「それは……ないと思うよ」

 そのまま伝えた。

 

 アイリーンは、L20の心理作戦部の隊長である。フライヤの、昨日の怯え方が無理もないほど、恐ろしい人物なのは確かである。その風貌はもとより、じっさいテロ組織に対して容赦なく、残虐非道な人物であることも事実だし、神経質で怒りっぽいのも、アイリーンの恐怖像を増大させている。

 だが、彼女は心理作戦部のまとめ役として優秀なのもたしかなのである。心理作戦部では一種のカリスマであり、アイリーンの階級は曹長どまりだが、貴族階級の将校や、L20の首相であるミラとも直接話ができる特権を持っている。恐ろしい人物ではあるが、それだけ周囲に力量を認められている人物なのである。

 無論、エルドリウスとも会ったことがある。だがとても、友好的な態度には見えなかった。アイリーンが、エルドリウスと仲良くなりたいがためにフライヤに近づく理由など、どう考えても見当たらない。エルドリウスと仲良くしたいなら、たぶんあった時点でそれなりに友好的なアクションはあったのではないだろうか――エルドリウスが考えていると、

 「でも、じゃあなんで、アイリーン隊長は、あたしと仲良くなりたいなんて、言ったんだろ……」

 「……」

 悩む必要はなかった。エルドリウスは苦笑した。この、いつでも自分に自信のない彼女は、自分に向けられた好意を、素直に受け取れなかったのだろう。

 「そんなに考えることでもないさ」

 エルドリウスは確信を持って言った。

 「アイリーンは、ただ、君と友達になりたいだけだと思うよ?」

 フライヤの目に迷いが浮かんだが――「そ、そうなのかな……」と小さく笑んだ。その笑顔が可愛いとエルドリウスは思ったが、今は言わないでおいた。

 

 「アイリーンの立場ではきっと、友人と呼べる人物も限られて来るだろう」

 「――え?」

 「彼女は忙しいし、心理作戦部という部署も特別なところだ。L20の心理作戦部はアイリーンのカリスマだけでまとめているようなところがあるし、信頼できる部下はいても、友人となると、カリスマ性のある彼女は、作りにくいかもしれない」

 「……」

 「あの性格では恐れられるばかりだろうし、憧れて慕ってくるものは、友とは呼び難いだろう。古い友人がいたとしても彼女の立場では疎遠になっていくだろうしね……。それに、心理作戦部の隊長なんかやっていると恨みを買うことも多い。身内や友人は、まず真っ先に利用されるだろうね? そういう意味でもきっと、ウィルキンソン家という後ろ盾がある君は、なにかあっても守ってくれる権力があると――そう考えたのではないかな」

 「そ――そんなことまで、考えてもみませんでした」

 フライヤが、エルドリウスの妻だということを確認したアイリーンの裏には、そんな考えもあったのかもしれない。フライヤは、納得したように頷いた。

 「本当のところは、アイリーンにしかわからないことだがね」

 「そ、そうですね……」

 「多分アイリーンと君はよく似ているよ」

 にっこり笑って言ったエルドリウスの言葉は、フライヤを苦笑させた。

 「寂しがり屋なくせに、意地っ張りなところなんか」

 「は、はは……」


デザートは、アイリーンが持たせてくれたケーキだ。フライヤは紅茶を淹れ、エルドリウスにはモンブラン、自分の分はミルフィーユを皿に乗せて、テーブルへ運んだ。

この可愛らしいケーキたちが、アイリーンからもらったものだと聞いた時のエルドリウスの、笑いをこらえているような、なんともいえない顔は、フライヤは二度と忘れないと思う。

 

 「分かってくれると嬉しいんだがね、フライヤ」

 紅茶の葉がすっかり蒸らされたことをつげて、砂時計の砂が落ち切った。エルドリウスはしずかに、フライヤと自身の分をカップに注ぐ。

 「私の生活はこの通りだ、たぶんこの先も変わらない」

 フライヤは、こくりと頷いた。

 「……私との生活が嫌になった?」

 フライヤは驚いたように目を見開き、そして、迷いがちに言葉を紡ぎ始めた。エルドリウスは待った。彼女が言葉を選ぶのを。

 「ちょっと……寂しかった、です……」

 「うん」

 「L18に戻りたいって、すこし、思ったけど……でも、」

 「うん」

 「エルドリウスさんが……会いに来てくれたから……」

 フライヤの顔は、これでもかというくらい真っ赤になっていた。ワインのせいではない。

 「元気、出たし……。あたし、ここで頑張ります……ひゃあっ!?」

 エルドリウスが、額にキスしてきたので、フライヤは椅子から飛び上がらざるを得なかった。

 

 「ありがとう、フライヤ」

 エルドリウスは、心からの笑みを浮かべていた。

 「私は、君と一緒にしたいことが山ほどある。でも、焦りたくはないんだ、君と仲良くなることも、君が今の生活に、慣れていくことも」

 傭兵であった君が、軍の生活に慣れることも。もともと引っ込み思案だった君が、自信を取り戻すのも、簡単なことではないかもしれない。

 「少しずつでいいから、私に、心を許すようになってほしい」

 「は――はい……」

 フライヤの返事は、いままでのようにエルドリウスに追い立てられ、相槌のようにしていた返事ではなかった。少しの間があって、頷く、それはフライヤが、分からないままにした返事ではなく、ほんとうの首肯だった。