ミシェルはそれでも、嫌々ながらもバスを乗り継ぎ、会場である、K37区の小ぢんまりとした美術館で降りた。 美術館の展示品を見に来た人にまじって入り口のゲートをくぐり、円形の広場の回廊をぐるっと周って、講習会場があるほうの建物に向かった。自動ドアが開き、すぐにしんとした、美術館特有の、何の音もない空間に入る。受付でアンジェラのガラス工芸教室のチケットを見せると、会場は三階ですと教えられた。 参加資格のチケットや通知にすら、今日講習会で何を行うか書いていない。ガラスを溶かしてなんらかの作品をつくる講習なのか、それともガラスエッチングか――持ってくるものや、服装などについてもとくに記載はなかった。 ますます夢で見たできごとの信憑性が高くなってくる。ミシェルは一応、筆記具やノート、作業用エプロンも持ってきたし、汚れてもいい服装で来たが、夢で見た通り、アンジェラはわずかな時間喋るだけで、実技を教えてくれるのはほかの人間なのだろう。 実技ですら、あるかどうか。 エレベーターで三階にたどりつき、クリーム色の廊下を歩いて会場は、会議室のようなシンプルな部屋だった。パイプ椅子に長机――ドアには、白い藁半紙にパソコンの字で「アンジェラのガラス工芸教室会場」と書かれているだけ。 わかり切ってはいたが、ミシェルはがっかりした。 腕時計は講習会開始十分前を指していた。ミシェルは仕方なく一番後ろの椅子に座り、会場を眺めわたしたところで、一人の女性の後ろ姿が目に付いた。 きれいな黒髪だなあ、というのが最初の感想で、すぐにミシェルはそれがだれだかわかった。落ち着きなさげに、そわそわと肩を揺らしている美人。ミシェルは思わず立って彼女のもとに行き、「――エレナさん?」と声をかけていた。 声をかけられたエレナは、一瞬相手が誰だか思い出せなかったらしく、キョトンとしていたが、すぐに、「あ――ミシェルちゃん?」と遠慮がちに名を紡いだ。 「え――ウソ――エレナさん、ガラス工芸やるの?」 ミシェルは驚きのままに口にしていたが、エレナのほうは慌てて首と両手を振った。 「いやまさか! あたしは知らないよ何にも……ジュリが勝手に申し込んじまっただけで、」 エレナは、今朝ルーイがルナにした説明を、今度は自分の口でミシェルに説明することになった。 「……というわけで、あたしが申し込んだんじゃないのさ。でも当たっちまって。どうせだったら行って来いって、みんなに追い出されてさ……、セグがいるのに」 あたし、ガラス工芸なんて、何が何だかわからないよ、とエレナは言った。知り合いがいてほっとしたのだろう、奔流みたいに彼女は喋り出した。 「周りの人が話しているのを聞いたけど、やっぱり経験者じゃなくちゃ――一回でもなにかつくったことがある人じゃないと、参加はだめなんじゃないかな」 エレナは、何をさせられるかわからないといった不安な顔をしていた。 「そんなことないと思うよ――経験者じゃなきゃいけないとは書いてなかったし。経験者は、作品をできれば提出してくださいって書いてあったけど」 ミシェルは、とっくに自分の作品の写真を提出していた。本物はL77の実家にあるので、写真を撮って送ってもらったものを、提出したのだ。選考の際に必要だったのだろうか。でもあくまでも抽選だから、選考はされていないはずなのだ。抽選とは、くじ引きである。募集が経験者に限ったわけでもない。 「ミシェルちゃん、どうせなら、あたしの隣においでよ」 「うん」 ミシェルは頷き、荷物を持ってエレナの隣に移動した。椅子に座ったところで、ミシェルは唐突に思い出した。バーベキューパーティーのときに、サルディオネに言われた台詞をだ。 『もし、孔雀の工房で彼女と鉢合わせたら、なにもせず帰ることだ。“ガラスで遊ぶ子猫”でいたかったら、帰ること。いいね。……あの黒猫があんたに危害を及ぼすんじゃないよ? あの黒猫とは個人的に親しくなれるが、でもずっとあとのことだ。あの黒猫はあんたのよきライバルの位置にあるから』 黒猫は――エレナだ。サルディオネは、たしかにエレナを指して言っていた。 ミシェルは反射的にエレナの横顔を盗み見た。エレナは時計を見上げて、「そろそろ時間だね」と呟いていた。 ミシェルは以前、エレナが苦手だった。理由はわからないが、彼女と居ると貧乏くじを引く――という、おかしな思い込みのためだった。 けれど、かつてエレナに対して持っていた奇妙な違和感が、今はない。 (サルディオネさんは、“ガラスで遊ぶ子猫”でいたかったら近づくな……って言ったんだよね) もしかしたら、自分のZOOカードは、“偉大なる青い猫”に変わったのかもしれない、とミシェルは、いまさら――ほんとうに今さら、気づいた。 「ミシェルちゃん?」 「――へ?」 エレナが不思議そうな顔で覗き込んでいた。なにか喋っていたようだが、ミシェルは全く聞いていなかった。 「考えごとしてたの? 悪いね話しかけて。ミシェルちゃんってガラス工芸やってたことがあるのって聞いただけ」 「え? あ、あ〜……母星でね、習ってたの」 「へえ。すごいねえ。ルナがさ、あんたは器用で、指輪とかネックレスとか、きれいなの作るって言ってたよ」 「昔から、そういう細々とした作業が好きなの」 「そうか。あたしはガラス工芸はわからないけど、ちらしの絵をまねて描いたり、縫い物したりするのは好きだった」 穏やかに笑うエレナが、自分を害する人間には全く見えなかった――彼女と居て、自分が貧乏くじを引くなんて、なんで思ったんだろうと、ミシェルは思った。 「あ。これ、かわいいね」 エレナが、ミシェルのバッグに下げられている、羊毛フェルトのマスコットを誉めた。 「こういうのも作るの?」 「え、あ、うん」 「器用だねえ」 「そうかな……へへ」 エレナにも誉めてもらって、朝から憂鬱だった気分が少しほぐれたときだった。 「みなさん、こんにちは!」 スーツ姿の女性が入ってきて壇上に立った。 「アンジェラのガラス工芸教室へようこそおいでくださいました!」 会場はすでに、二十人分きっちりと椅子は埋まっていた。男性と女性と、半々といったところだろうか。 いよいよはじまった。 ミシェルはわくわく感どころか緊張感でいっぱいの視線を、壇上へやった。 「皆さんが今日、この会場に来られたことは、とてつもなく幸運なことです!」 ミシェルは、アナウンサーのように流暢に話す、彼女の大げさな身振り手振りを見ながら、まるで遊園地の着ぐるみのようだとひそかに思った。 笑顔と口調は一流だったが、彼女はこの講習会に当選したことがどれだけ稀有で貴重なことなのかを、それはそれはくどく説明した。クラウドの説明とどっちがくどいだろうとミシェルが根を上げはじめたとき、 「アンジェラは自伝も出されておりませんし、その私生活は謎に包まれています。今日は、アンジェラのファンである皆様方が、すこしでも彼女という芸術界のカリスマと――その創作の息吹に触れられる素晴らしい機会――であると私どもは思っております。本日は、有意義なひとときを――」 まばらな拍手とともに、主催者の挨拶は終わった。 なるほどたしかに、実技の講習があるとはひとことも言わなかった。だが、ミシェル同様、大荷物を抱えてきている参加者がふたりいる。あれが、抽選で当たった参加者なのだろう。かれらも、アンジェラに直接実技を教えてもらえる講習会だと思って、きているはずだった。 ミシェルもあの夢を見ていなかったら、あのふたりのように期待に満ちた目で、わくわくと待っていたに違いない。 |