スラムでスリをやってきた野性児の体力はけっこうなものだ。アズラエルは軽く汗をかいている程度だが、ピエトは途中で弱音を吐くと思っていた。だがピエトは、バックパックを背負ったまま完走した。べつにアズラエルは重しをつけろと言ったわけではないが、ピエトは存外、この新しいバッグが気に入っていたのである。だから持って出かけたかった――というピエトの心中が吐露されていたなら、アズラエルはまた、「ガキの考えることは分からねえ……」と呟いていたかもしれない。

ピエトの病気のこともあるし、(医者に運動を禁止されてはいなかったが。)無理はさせないよう距離を短くしたアズラエルだったが、ピエトはまだまだ余裕だ。明日は一キロ、距離を増やしてみようと俄かパパは思った。

 

「ルナあ、ただいま!!」

 「……リズンでクラウド見たぞー、ルナ、いねえのか」

 いつもなら、「おかえりなさい!」と飛び出てくるうさぎが今日は来ない。だが奥から声はする。二人が部屋にはいると、ルナは電話をしていた。

 「うん、わかった。じゃあね、ルーイも遊びに来てね」

 ちょうど話も済んだところのようだ。アズラエルは冷蔵庫から水をだし、コップに注いでピエトに持たせてから、「ルーイか? 珍しいな」と言った。

 「うん、あのね」

 ルナは受話器を戻し、コーヒーサーバーのほうへ行った。アズラエルはペットボトルのままごくごく飲み干す。

 

 「エレナさんも、今日のアンジェラさんのガラス教室に行ってるみたいなのよね」

 「なんでまた」

 エレナとガラス工芸がいまいち結びつかなくて、アズラエルは首を傾げた。

 「ジュリさんの学校で、ずっとまえ、ガラス教室の募集があったみたいなの。それで、エレナさんは絵をかくのが上手だったらしくて、ジュリさんが勝手に申し込んじゃったんだって。でもね、ジュリさんってばすっかり忘れてたんだって。クラウドも言ってたけど、あれって抽選ですごい倍率だから、クラウドがララさんにとくべつに頼んだから、ミシェルも行けるようになったわけでしょ。まさか、エレナさんが当選するとは思わなかったらしくて」

 「……当選しちまったのか」

 いったい、どれほどの倍率だったのか。エレナが当選したのも奇跡だろう。

 「うん。だからね、せっかく当たったから行って来いってみんなにゆわれて、仕方なく、エレナさんも向かってるんだって」

 「そのことを、わざわざルーイが連絡してきたのか?」

 「あ、ううん」

 ルナはぷるぷると首を振った。

 「ルーイもエレナさんも、ミシェルも行くんだってことは知らないよ。言ったらびっくりしてたもん。そうじゃなくてね、帰りにね、エレナさんがうちに寄るかも、だって」

 「そうか」

 ルナがどことなく元気がなさそうに見えて、アズラエルは「どうかしたのか」と聞いた。

 「うん……」

 うさ耳はすっかり垂れていた。

 「エレナさんとルーイ、一週間後に、宇宙船降りるって、決まっちゃったんだって……」

 

 

 

 『――今日、帰りにルナの家に寄りたいって言ってたから、よろしく頼むよ』

 『うん、エレナさんに会うのもひさしぶりだし、嬉しいな。ルーイも来てくれたらよかったのに』

 『俺も行きたかったけど――でもきっと、エレナは、俺がいたら話しづらいと思うから、行かねえよ』

 あとで迎えには行くけど、とルーイは遠慮がちに言った。

 『え……っ?』

 『エレナ、本当は、宇宙船を降りたくないと思うんだ……』

 ルーイはすこし元気のないため息を、電話向こうで吐いた。

 『俺が悪かったんだ。エレナと一緒に暮らせたことが、エレナがプロポーズ受けてくれたことがうれしくて、俺、エレナをうちの両親に見せたくて、何度もテレビ電話した。エレナがうちの親と仲良くなってくれたのはうれしかったけど――あれだけ何度も、うちの親が、早く孫を抱きたいっていったら、エレナも仕方ないと思っちゃうよ』

 『……』

 『それに、マックスさんとチャンさん――俺らの担当役員だけど――彼らも、降りるなら一日も早く降りたほうがいいって、そういうんだ。地球に行くなら別だけど、もう降りる決心がついたなら、一日も早いほうがいいって。やっぱり宇宙船にいればいるだけ、L系惑星群との距離は離れるし、かえりの距離も長くなる。今帰路についたって、L53に着くのは三、四か月後だって。俺とエレナだけだったら、もっと急げたかもしれないけど、セグが居るしな。赤ん坊に、宇宙船を乗継しての長旅は大変だって。俺もそう思うし、エレナもおなじ意見だった。だから、話し合って、一週間後には降りることにしたんだ』

 セグエルは、エレナの子どもの名だ。さんざ名づけで争った結果――セルゲイとグレンとエレナとルーイの頭文字を合わせることになったのだった。

 『でもエレナは、ほんとうは嫌なんだ。我慢してるんだ。俺のために――ていうか、俺の両親のために、いっしょにL53に来ようとしてくれてるけど――でも、ほんとうは、』

 そこまで言って、ルーイは声を詰まらせた。

 『ほんとうは、……ルナと一緒に、地球に行きたいんだ』

 

 

 

 ミシェルは、めずらしくタクシーではなくバスを使って、K37区の講習会場に向かっていた。

タクシーだと目的地まで一直線だが、バスは乗り継がなければならない。バスもタクシーも料金設定はほぼ同じなので、いつもミシェルはタクシーばかりつかっていた。なのに今日に限ってバスなのは、ミシェルの行きたくない気持ちを大いに反映していた。つまり、行きたくなければ区画内を周遊するバスに乗ったまま、もとの場所まで帰ってくればいい。

 

 (あああああ……行きたくない)

 ミシェルには今日の顛末が、とてもうんざりすることに、はっきりとわかっていた。どんな形であれ、自分は行くだけ行って、――おそらく、受講は受けられずに帰ってくる羽目になる。しかも、いやな思いまでして。

 

 (行く意味、あんの)

ほんとうは、サボればいい。サボったところで、きっと構わないのだ。アンジェラ自身が、とくに講習会などに興味はなく、はやく終わらせたがっているのがわかる。無論、来る人間にも興味などない。

ミシェルへの――嫌み以外は。

 

講習会参加者も、ほんとうに抽選で受かったのは二十名中三名のみ。ほかはサクラ。ララの取り巻きか関係者だ。残りの、ほんとうにアンジェラの講習を受けたくて参加した参加者の期待も大きく裏切られることになる。アンジェラは十分程度、適当に芸術についての持論を述べた後、あとは帰ってアトリエという名のベッドに潜り込む。実演すらなくかれらは、最終的にアンジェラの作品を記念にもらって、帰るだろう。

 

 彼女は講習会直前までだれかと寝ている。髪を振り乱し、腰を振りまくる彼女の雄姿を見てミシェルはぼんやりと、(激しいなあ)という年寄りみたいな感想を漏らした。

 (あのひとあたしより年上のはずなのにすげえ……。腰の動きすげえ……)

 と、枯れたジジイ――もとい婆さんみたいな――感想しか出なかった。

 

 そんなものをどこでみたかというと、昨夜の夢は、青い猫による、明日一日の出来事――という名の試写会だったからだ。本日の顛末を、青い猫の説明つきで見た――もとより、見させられた。青い猫も、アンジェラの激しいシーンについては、「若いよね〜」とジジイみたいなことを言っていた。「いや私もね、昔は、これくらいね……」

 ミシェルとクラウドのエッチなど、アンジェラのを見た後では恐ろしく清い愛の行為(笑うところ)に見える。

 (あのひと、スロー・セックスとか絶対縁ないよね……)

 というわけでミシェルは、会場に着くまで、ずっと下ネタでひとりボケツッコミをしていた。逃避ともいう。

 

 その逃避にも飽きたころ、ミシェルはバッグから週刊誌を取り出して眺めた。パラパラとめくる、そこには、アンジェラの記事があった。見出しには、――金にならない芸術なんて、ただのクズよ! ――というアンジェラの過激発言が大きく斜めに取り上げられていた。

 ミシェルは普段、ゴシップ誌は買わない。ファッション雑誌をごくたまに買うくらいだ。だが、表紙におおきくアンジェラの顔写真がついた週刊誌を見たら、衝動で買ってしまったのだった。中身は、アンジェラの言葉に対する痛烈な批評ばかりだったが。

 

 (金にならない芸術かあ)

 ミシェルは週刊誌をバッグにしまい、ぼんやりと外を眺めた。

 (アンジェラは、金にならないものは芸術じゃないのか)