「ミシェルちゃん!」

 

ミシェルは、エレベーターが一階につき、扉が開いて出たところではっと顔を上げた。

 

――あれ? あたし、いつの間にあそこ出てきた?

 

まるで人のいない、一階のエレベーター前で佇んでいると、階段のほうから自分の名を呼ぶ声が聞こえてくる。「ミシェルちゃん――ちょっと! 待っておくれ」

ミシェルはぽかんとして、あ、エレナの声だ、と認識した。

そうして慌ててバッグの中を見ると、やはり作品集はなかった。置いてきてしまったのか。でもさすがに、あの空気の中であれは持って帰れなかった。

がっかりしたミシェルは一度膝を抱えて蹲り、「はあ〜あ」と残念なため息をついた。そしてエレベーターまえでぼんやりしゃがんでいると、大慌てで駆け下りてくるエレナの姿がようやく見えた。エレナにもミシェルの姿が見えたようで、「よ、よかった……まだいてくれたんだね」とほっとした顔で駆け寄ってきた。

 

「だいじょうぶかい、ミシェルちゃん」

「え?」

「いったいなんだか分からないけど――意地の悪いオバハンだね」

エレナのオバハン発言に、ミシェルは一瞬停止したのち――爆笑した。

そうか、二十四、五のエレナから見たら、アンジェラは三十七、八歳。おばさんか。

受付嬢の、「静かにしてください」といわんばかりの視線を感じてやっと堪えたが、腹の底から込み上げる笑いは、どうにも止まりそうになかった。大きな緊張から解放されたせいもあるだろう。

「ぷっ……くく……ごめんエレナさん、ちょっとここ出ようか」

エレナは、ミシェルを心配して出てきたのだろう。ミシェルが思ったより平気そうなのを見て安心した顔をし、「そうだね」と頷いた。

 

「……そうだったの。クラウドが頼んでくれたんだね」

エレナはミシェルの話を聞いて納得したように頷いたが、ますます憤慨した。

「でも、あんなふうに、みんなの前で言うことはないじゃないか。クラウドに頼んで参加させてもらったことがズルだっていうなら、最初からミシェルちゃんの参加を断ればよかったのに」

美術館を出、バス停に向かって歩きながら、ミシェルは青い猫もさらに真っ青な、エレナの啖呵を聞いた。

「それじゃあ、まるでミシェルちゃんに恥をかかせるために呼んだようなもんじゃないか。やっぱり意地悪だよ。ミシェルちゃんが出てったあと、あのおばさんがあたしの方まで睨むもんだからさ、あたしも出て行こうと思ったんだよ。どうせ、ガラス工芸なんか興味ないから。あのアンジェラって人は、綺麗だけど意地が悪いし冷たい人だね。あんな言い方しなくたっていいじゃないか。いくら綺麗なものを作る人でも、あたしはあんなひとの作ったものなんか、欲しくないね」

ミシェルは苦笑した。

「あたしは、立派なものじゃなくても、作る人の優しさがあるもののほうが好きだ。ミシェルちゃんの作る、このマスコットとか」

「……ありがと」

「それで、あの部屋もうるさかったし、こっそり出て行こうとしたら、あの最初に喋ったキンキン声のひとが――」

アナウンサーのような喋り方の司会者だ。

「あわててこっちに来て、これだけは持って帰ってくださいって菓子の袋と大きな図鑑――ああ、なんか、中身はグラスだっていってたな――この箱とさ、――あたしいらないってのに。押し付けるもんだからさ、持って帰って来ちゃった」

エレナの布バッグからはみ出ている作品集の表紙に、ミシェルの目は釘付けになった。

「まあ、三千デルも払ってるんだから、これくらい貰って来たっていいかもしれないね」

この作品集が三万デルで売っていることは、エレナは知らない。

「エ、エ、エ、エ、エ、エレナさ……、」

「どうしたの?」

「その作品集、さ、三千デルで売ってください!!」

三万も払えないけど、いらないんだったらお願い! よかったら、よくなくてもできれば! この通り! とミシェルは手を合わせた。

「そんなに欲しいならあげるよ」

エレナは躊躇なく作品集をミシェルへ差し出した。エレナはアンジェラにも彼女の創作物にも興味はないし、ミシェルも同じく三千デルの参加費を払って参加したのに、あんな言われ方をして、しかも何のおみやげも持たされずに帰されたことを、かわいそうに思ったのだった。

「え、ええーっ! い、いいの……!?」

作品集を受け取り、顔を輝かせるミシェルに、あんな嫌味なひとの作品のどこがいいんだろうとエレナは思わないでもなかったが、こんなに喜んでいるところを見ると、よほど欲しいものだったのだろう。

「いいけど、ミシェルちゃんはあとで必ずお金を返してもらいなね」

エレナは金にはうるさい。ミシェルは三千デル払い損だと思っていた。自分は紅茶も飲んだし、菓子と高そうな画集、グラスまでもらったからしかたないと思えるが、自分が何も持たずに帰されていたら、あとでぜったい金を返せと言っていた。

だがミシェルは作品集が手に入った興奮で、エレナの言葉は聞いていなかった。

「ほ、ほんとにありがとう! エレナさん、なんかお礼させて! いやするからね、ここは絶対するからね!!」

「気にしないでおくれ。あたしは、ガラスとかあんまり興味ないんだからさ」

 

バス停に着くと、エレナのほうが先に聞いてきた。「ミシェルちゃん、これからどうするの」

「あたしはK12区の手芸屋さんに――あ!」

ミシェルはそこで思いついたように叫んだ。

「エ、エレナさんはなんか予定とかある!?」

「あたしは、講習会終わったら、ルナのうちに遊びに行こうと思ってたんだ。だから、一緒にと思って……」

「そうだったの? ……あのさ、嫌でなかったら、すこしつきあってくれないかな」

エレナは少し首をかしげたが、

「いいよ。講習会がなしになっちまったからね。ルナのうちに行くのも、すこし早いかもしれないし」

「よっし! そうと決まったら出発!」

ちょうどよく、バスが停まった。バスに乗り込もうとするミシェルに、エレナがあわてて、

「ちょ、ちょっと待っておくれ! あたし、このバスってやつに乗ったことないんだ」

「そうなの? 大丈夫大丈夫! タクシーと変わんないか、安いくらいだから! じゃあ今日が、エレナさんのバスデビューってことで!」

「ほんとかい? タクシーより安いの」

エレナは安いという言葉に即座に反応して、素直に乗った。

 

 

 

 

さて、少し時間をさかのぼり、ルナのご様子である。

ルナはソワソワ、ぴこぴこと家の中を歩き回り、非常に落ち着きがなかった。

そわそわ、ウロウロ、ぴこぴこ、ウロウロ……。

アズラエルは大変に嫌な予感がしたが、その予感は的中した。

気配がなくなったと思ったら、やがて部屋から出てきたルナの姿に、アズラエルはもとより、ピエトも口をあんぐりと開けた。

スカート姿が多いルナが、パンツとジャケットにシャツ――そこまではいい。問題はここから――栗色の髪を、どんなまとめ方をしたのかすっかりベレー帽の中に押し込み、顔の半分もあるような、サングラスをかけて現れたのである。なぜか、冬用の手袋をつけて。

 

「ストーカーに行ってきます」

ルナははっきりとそういった。「は?」アズラエルがあまりのことに聞きかえしたが、

「ストーカーに行くの。それでね、アズとピエトはお昼ごろ、リズンに来てください。お昼ご飯を食べます」

「ルゥ……」

アズラエルはとても気の毒そうな顔をしたが、とりあえず聞いてやった。

「おまえの目的はストーカーなのか? それとも昼めしか」

「両方です!」

「よくわかった。昼めしはリズンだな?」

「そのとおりです」

ルナはバッグを持たずに出かけて行った。ルナの場合、わざとではないだろう。たいてい、リズンに到着して一時間後くらいに「財布がない!」と叫ぶのだ。普段と違う行動をするとこうなる。アズラエルも伊達に恋人をやってきたわけではない。

 

「なあ、アズラエル……」

「どうした」

「ルナって、ときどきさ……、変だよな……」

ピエトが、ルナがいなくなった玄関の方を見つめてぼやいたので、アズラエルは肩を竦めた。

「良かったよ。俺だけがアイツをおかしいと思ってンじゃなくて」