八月二十八日 午後五時三十分。 「やあ。話ってなに?」 師匠が作業用のエプロンでそのきれいな手を拭き拭き、工房から出てきた。硝子のとける独特のにおい、火の音が聞こえる。しばらく、この音ともお別れです。 朝、ルナから電話があって、それが大したことない話じゃなくて結構とんでもない話だった。 地球行きのチケットが、手に入ったのだ。 正確には、ルナに来たんじゃなくて、ルナの幼馴染のリサと、それから中学の時いっしょだったキラに来たんだ。それで、ふたりともルナのところに来て――あたしもいっしょにいかないか、という話になり――。 あたしは、いつもだったらけっこう悩んで結論を出すところだけど、きのうはあっさり「行く」と返事をしてしまっていた。両親の承諾とか、ガラス工芸のこととか、全部忘れて。 ルナが驚いて、「もうちょっと考えてみてからでもいいよ?」といってくれたが、返事は一週間後だそうで、そんな早いんだったら、悩んでも一緒だな、とあたしは珍しく即決したのだった。 親には今日の夜言うつもりだった。反対されても、行くつもりだったし、たぶんあたしの両親はのんきなのであまり反対はしないだろう。なにせ、受験のときも娘がどんな学校選んだか、合格するまで知らなかったくらいだし。うちはけっこう、放任なのだ。 「どうしたの? 休みの日に。明日では遅い話なのかな」 森の中では、街中と違ってセミの声も反響してすごい。セミの季節もそろそろ終わりだ。むしむしする、この暑さも。 ガラス工芸の工房、「しずくの森」は、あたしらの町から車で一時間の、閑静な森の中にあった。山のふもとで、近くには広い牧草地や、ゴルフ場もある。工房には庭があって、お茶ができる白い丸テーブルといすがある。 だれでも立ち寄って見られる、ガラス細工の展示室があって、今日はお客さんはいなかった。師匠はあたしのほかにも弟子を二人取っていて、今日はそのふたりも来ていなかった。あたしは週四日、この師匠に習っている。 工房の掃除したり、師匠の手伝いをしながら、給料をもらっている、バイト見習いかな。 近くの農場がやっているチーズ店のフロマージュが、結構おいしい。あたしは、それを手土産に師匠の工房を訪れた。しばらくはこのフロマージュともお別れだし。 「あ、なに? おみやげ? ありがとう。じゃあ、ちょっと休憩して庭で食べようか」 庭の、丸テーブルに師匠は、新作のグラスにアイスコーヒーをいれて持ってきてくれた。 綺麗な曲線を描いた、小ぶりなグラス。あたしもこのあいだ、一つもらった。 夕暮れの日差しが、ガラスに反射して、とても眩しかった。 晴れの日は、よくここで師匠とお弁当を食べたり、お茶したりした。 風景はいいし、春先の風の心地よさのナカで食べるお弁当のおいしさといったらなかった。いつかあたしも、こういうところに工房を開きたいなって思ったんだ。 ちりん、と音がしたので見たら、丸テーブルの傘のところに、あたしのつくったてるてるぼうずの風鈴が飾ってある。あたしがここにきて、はじめて作った作品だ。あのときは春先だけど、雨が降っていて。 ……なんだか、しんみりしてしまう。 夏が終わりそうなせいもあるからかなあ。 「……ええ!? 地球行きのチケット! それはすごいなあ!!」 師匠は、切れ長の目をできうる限りまん丸にして驚いていた。びっくりしすぎて、フロマージュをスプーンから落とした。 リサにもキラにも、なるべく、誰にも言わないでといわれていたが、師匠には事情を話さないといけない。それに、師匠は言いふらす人ではないし、大丈夫だと思う。 「はい。あたしにじゃなくて、ルナの幼馴染に来たんですけど」 説明すると、師匠はうんうん、と感心したようにうなずき、 「それはすごいことだな。行くんだろう?」 師匠は、行くのが当然だろうという顔をして言った。 よかった。話が早そうだ。ここの修行はどうするの? って聞かれたら、どうしようかと内心思っていたんだ。 「は、はい――。せっかくの機会だから、行ってみようと思って」 師匠はアイスコーヒーにミルクを入れた。 「素晴らしいことだね。きっと、いい経験になるよ。ちょっと寂しくなっちゃうけど、その地球のツアーって、永住権を取るものではないんでしょ?」 「ええ。そうですね。地球に旅行するだけだと思います」 「じゃあ、また帰ってこれるんだもんね。修業は、長期休養扱いってことにしておいて、また帰ってきたら、いつでもおいで」 「あ、ありがとうございます!」 辞めることになっても仕方がないと思っていた。 その師匠の言葉に、あたしは不覚にもちょっと涙したよ。 優しい師匠に感謝しながら、あたしはますますロビン師匠が好きになって、――宇宙船に乗った。 そうしたら。 チェシャ猫の夢はますますイジワルにエスカレートしたのである。
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