翌日、雨はすっかり晴れていた。

早朝のリズン店内カウンターには、またもサルディオネがげんなり顔で突っ伏していた。今回は、辞典のような厚さの本はそばにない。

 

 「アンジェ、ひどいありさまだね」

 サルディオネのめのしたには隈ができていたし、髪はボサボサだった。

 「もしかして、まだ読んでるの、神話の本」

 彼女は首を振った。

 「ミーちゃんには、会えた?」

 今度はうなずく。

 「どうだった? 知りたいことを教えてもらえた?」

 アントニオの質問には、鼻を膨らませ、口を尖らせた表情がこたえだった。

 

 「……さんざん、叱られたんだけど、あたし」

 「叱られた?」

 「サルディオネ様は、ZOOカードというものを、まったくわかっていらっしゃらない、真砂名の神のことも、ルナさんのこともわかっていらっしゃらない。そんな未熟者が、神話の切れ端を知ったところで、なにひとつ分からないってさ……。もう、二時間も説教されて、マジ参った……」

 カザマの返答は、アントニオの予想範囲内だったのだろう。アントニオが遠慮なく大笑いしたので、サルディオネは自分的に最大級の不細工面でにらんでやった。

 

 「笑わないでよ……あたしはこれでも、真剣だったんだからね。バカなことやってるように見えるかもしれないけど、あたしなりに、一生懸命……」

 サルディオネの険悪声に、涙がにじみはじめたので、アントニオはやっと笑うのをやめた。

 

 「サルちゃんは、元気なの」

 サルディオネは涙を見られたくないかのように鼻を啜り、ジャージの袖で頬を拭ったので、アントニオは全然関係ない話を持ち出した。

 

 「姉さん? ――いつもどおりだよ」

 サルーディーバは、真砂名神社と家とを、往復する毎日。

 「元気がいいとは言い難いけど、――しずかな暮らしをしてるよ。蟄居生活のときと、おんなじかんじ」

 「……」

サルディオネやメリッサ、カザマが外に連れ出す以外は、部屋に閉じこもりきりだとサルディオネは言った。あとは長老会やL03にのこった知己に手紙を書いたり、本を読んで過ごしている。

 

 「きのうの朝ごはんのときもさ、あたし、あんたに教わったつくりかたでホットサンドつくったんだけど……」

 「きのう? きのうはアンジェ、俺といっしょに朝ごはん食べたじゃない」

 「え?」

 サルディオネは、ほんとうに覚えのない顔をした。

 「おとつい泊まったから、俺と一緒に朝ごはん食べたでしょ。ここで。ホットサンドとコーヒーとさ、」

 「え? ――あれ?」

 

 サルディオネは記憶を探ってみた。どうかんがえても、きのうは、自分がアントニオに教わったホットサンドをつくって姉に食べさせたのだ。L03の料理以外はなかなか口にしない姉に、おいしいと喜ばれて――。

 

 「ちがうよ、あたし、きのうの朝は姉さんと二人でごはん食べたよ」

 「……俺とだったと思うけど」

 「じゃあ、おとついの朝?」

 「おとついは、ミーちゃんが朝ごはん作ってくれたって言わなかった?」

 「あ、そうだ」

 

 おとついは、カザマが作ってくれたのだ。L03でよく食べていた、野菜たっぷりの雑炊を。

 

 「ちょっと待て。じゃあこれ、いつの記憶? あたし、いつあれ作ったんだっけ」

 「おいおい、だいじょうぶ? アンジェ。やっぱり最近、無理しすぎだったんじゃないの」

 「ほんと――そうかも」

 

 サルディオネはふたたびべったりとカウンターに突っ伏した。

 

 「あたし、やっぱおかしいよね。最近、おかしい」

 

 アントニオが、真剣な心配顔でサルディオネの顔を覗き込んできた。

 「ZOOカードの調子は?」

 「……それはだいじょうぶ。ZOOカードは大丈夫ってか、仕事でする占いはだいじょうぶなんだけど、メルヴァとルナに関してね、なんか、腑に落ちないことが多くて、」

 「腑に落ちないことって?」

 「メルヴァがマリーを愛してて、それでルナを逆恨みして命を狙うっていうのはさ、ZOOカード的には納得なんだけど、あたしのどっかが、なんか違うんじゃないかと、」

 

 「はあ!?」

 アントニオが素っ頓狂な声を上げた。

 「は? 一体なんで!? どうして、そんな結論になったの!?」

 「アントニオに見せたよねあたし。マリーとメルヴァを結ぶ、真っ赤な糸――」

 「いや、俺見てない! なんだって? そんなのが出たの?」

 「見せてなかったっけ?」

 

 サルディオネがZOOカードのボックスを引き寄せ、指をパチリと鳴らすと、メルヴァの「革命家のライオン」と、マリアンヌの「ジャータカの子ウサギ」のカードが出てきた。

 

 「ほら、赤い糸――」

 

 サルディオネがぼんやり顔でカードを指さしたが、カードのあいだに、サルディオネが見たような真っ赤な糸はなかった。兄妹愛をしめす、爽やかな緑色が輝いているだけだ。

 

 「え?」

 焦ったのはサルディオネだ。

 「え? ――あれ? いやマジで、あたし見たの。あんたと料亭の二階でヤッて、帰ったとき――」

 

 「騙されたね、アンジェ」

 

 アントニオは何を思ったか、宙に浮かぶ二枚のカードを引っ掴むと、マッチを擦り、流しのうえで燃やし始めた。

 

 「な、なにすんの! アントニオ!!」

 「メルヴァとマリーの赤い糸? 冗談じゃない」

 アントニオは、瞬く間に火の中にきえていくカードを見ながら、困り顔で言った。

 「あのふたりは、正真正銘、仲のいい双子の兄妹だよ。禁断の愛なんて、冗談じゃない」

 「――え?」

 「マリーとシエハザールが両思いなのは知っているけど、メルヴァがマリーに恋しているなんて、冗談も過ぎるよ。メルヴァがほんとうに想っているのは――」

 アントニオは言いかけ、やめた。

 「アンジェは騙されたんだ。目をくらまされたんだよ」

 サルディオネは、絶句していた。

 「あたし――まちがったものを、見ていたの?」

 「……」

 

 アントニオは携帯電話をエプロンのポケットから出すと、押し慣れた番号を押した。

 「あ、じいさん? 今神社にいる?」

 相手は、真砂名神社の神主おじいさんだ。サルディオネにも分かった。

 「いまからZOOカードそっちに送るから、チェックお願いしたいんだけど、いい?」

 『ダメといっても寄越すんじゃろ』

 いつもの、面倒そうなおじいさんの声が、サルディオネにも聞こえた。

 

 アントニオは電話を切ると、ZOOカードのボックスを、電子レンジの扉を開けて押し込もうとした。

 「ちょ、アントニオ! チンしないで!!」

 「チンするわけじゃないさ。これ、物品運搬専用シャインだよ」

 「そ、そうなの……?」

 サルディオネが戦々恐々としてアントニオのしわざを見ていると、アントニオは扉を閉めてキーを押す。

 「い、いまチーンって言った! チーンっていったよ!? あっためたわけじゃないよね!?」

 「だいじょうぶ、ほら」

 アントニオが扉を開けて見せると、ZOOカードは跡形もなかった。真砂名神社のほうに送られたのか。

 「なんで、電子レンジの形にしたかな……」

 心臓に悪いよ、と蒼ざめたサルディオネに、アントニオは軽快に笑った。

 「オーブンのほうがよかった?」