「――治らない、アバド病?」

 「ああ。症状はアバド病。だからアバド病の治療は施しているし、薬も飲んでいる。だが、治らない」

 

 ルナとペリドットは、コテージ風の宿舎のほうへ、移っていた。

 セルゲイはカレンを抱きかかえて、ベッタラと一緒に区役所のほうへ向かい、グレンはアズラエルとともに、おじいさんに連れられて、血だらけになった服を着替えに行った。ルナは、アズラエルも血まみれになっていたのを呆然と眺めた。

 開け放たれた扉の向こうに見えるのは、相変わらずの宴の喧騒――カレンが倒れたことなど、だれも気づいていない。

 ルナはいまごろ、怖くなった。カレンが吐いた血の量を思い出して――。

 

 「カレンの寿命はあと三年ほどしかない」

 「――え?」

 ルナは凍りついた。

 「地球に着くころ――カレンは死ぬ」

 

 ペリドットは、厳かに告げた。ルナは唇を震わせながら、おもわず聞いた。

 「アバド病は……治るん、でしょ?」

 「治るよ。ふつうはな。――だが、カレンの場合は悪化する一方で治らない。どんな手を尽くしてもダメだった。マッケラン家の資産をもって、あらゆる手を尽くしても。思いつめた義理の母親が、カレンを宇宙船に乗せた。一縷の希望を託して――」

 「……」

 「この宇宙船は、奇跡が起こると言われてるそうだからな」

 

 ペリドットは他人事のように小さく笑った。

 カレンとペリドットは初対面のはずだ。なぜそんなにもカレンのことを知っているのか。そこまで知っているなら――カレンがどうしたら助かるのかも知っているのか――。

 

 「カレンの寿命を延ばす方法は、ただひとつ」

 ペリドットが、ルナの考えを読んだかのように言った。

 「カレンが、マッケランの次期当主になることだ」

 

 「次期、当主……」

 「だが無理だろう。カレンの義理の母親――ミラ首相と娘のアミザは、カレンを当主にすることを望んでいる。だが、一族の者は許さないだろう。カレンの母親の末路がひどすぎた」

 「カレンがマッケランの次期当主になれればいいの?」

 「カンタンに言うなよ? いまのところ、九割がた不可能なんだ」

 

 「あたしのうさこがなんとかする!」

 ルナは叫んでいた――涙声で。

 「あたしと――あたしの、その、うさこ、が、」

 ルナはぼたぼたと涙をこぼした。

 「うさこ? “月を眺める子ウサギ”のことか?」

 ペリドットが優しく聞いてきた。

 

 ルナはうなずき、唇を引き結んで、さっきのセルゲイと同じように、木の床とにらめっこした。

 カレンの様子も気がかりだが、ルナが泣いているのはカレンのことだけではない。ペリドットには、何もかもがお見通しのようだ。

 ペリドットは、ルナの頭を、乾いた大きな手でぽんぽんとやった。

 

 「おまえとしては、嫌なんだろう。アズラエルもグレンも、セルゲイも――奴らだけじゃない。たくさんの人間が、おまえのために危ない橋をわたろうとするのが」

 「……」

 また、ルナのつぶらな瞳に大きな涙粒が浮かんだ。

 

 ルナには、あまりに違う世界でありすぎて、想像も追いつかない。

 メルヴァの軍と戦う――戦争になる? アストロスで? あまりに途方もない出来事だった。でも、ルナにもわかることは、皆がルナを守ろうとしていることだ。

 ルナを守り、だれかはメルヴァをさがし、だれかはメルヴァと戦う覚悟をしている。メルヴァの軍と――あるいは、メルヴァ本人とも。

 アズラエルがメルヴァと戦って死んでしまったら? グレンも――カレンもセルゲイも。

 今日、ここで一緒に話を聞いたみんなだけではない。カザマも、サルディオネも――クラウドもミシェルも、ルナを守ろうとして、戦いに巻き込まれて命を落としたら――。

 ルナは、嫌だった。

 それが一番嫌だった。

 自分が生き残っても、だれかが死んでしまったら。

 でもルナにも、どうしたらいいか分からない。

 ルナはアズラエルたちのように、武器を持って戦うことができない。サルーディーバたちのように、不思議な力がつかえるわけでもない。クラウドのように、特別に頭がいいわけでもない。

 L77というどこよりも平和な星で、のんきに育ってきた人間に過ぎない。


 ペリドットは、ルナの独白を黙って聞いていたが、やがておだやかに言った。

 

「気持ちが、分かったか」

 「え?」

 「気持ちが分かったかと聞いているんだ。――遺された者の気持ちが」

 

 遺された者の、きもち?

 

 「メルーヴァが、ラグ・ヴァーダの武神とアストロイの兄神の戦を止めようと、自分の身を彼らの戦いに投じたあと――平和の女神をうしなったアストロスの民が、どれだけ絶望したか、悲憤したか――分かったか」

 「……!」

 「おまえは、自分が犠牲になれば皆が救われると思ってやったのだろうが、遺されたものは――守られた者は、今のお前と同じく、悲しかったんだぞ」

 「……」

 ルナはしゃくりあげながらも、鼻をかみながらも――泣くのをやめた。

 

 「あたしは――あたしは、どうすればいいの」

 どうすれば、よかったの。

ルナは、途方に暮れてつぶやいた。

 「あ、あたしは――」

 

 あたしは、なんにもできない平凡な子。本を読むのが好きで、ツキヨおばあちゃんと温泉に行ったり、ともだちとお茶するのが好きだった。それでよかった。

 引っ込み思案で、いつも自信がなくて、みんなみたいにやりたいこともない。得意なこともない。ご飯を作るのは好きだけど、ただそれだけ。

 どうしてアズラエルやグレンみたいな人が、あたしを好きになってくれるのか分からない。そう考えるのもいやな子だって。卑屈だって分かっている。

 あたしはなんてちっぽけなの。

こんなちっぽけなあたしのために、なんでみんなは危険な目にあうの。そんなのはいやだ。みんなが危険な目にあうことなんてない、あたしは、あたしはそうなるくらいだったら――。

 

「“ウサギ”はよく、そう言うな」

ペリドットは微笑み、

「なにもできない? バカを言うな。おまえにしかできないことがある」

ルナは、顔を上げた。

「“月を眺める子ウサギ”だったら、こう言うだろうな」

 

「“ルナ? あなたには、物語をハッピーエンドにする力があるのよ”」

 

ペリドットの口から、ルナの声――しかももっと高貴にしたような――声が飛び出たので、ルナは仰天した。

 

「ルナ、ただひとつ、言えることがある」

ペリドットは、ルナの涙を拭って言った。

「神は、絶望してはいけない」

「――え?」

「神様が絶望したら、世界は真っ暗なんだ。おまえは絶望しちゃいけない。どんなことがあっても、絶望しない――それが、神の力だ」

「……」

「おまえがしなくてはならないことは、絶望しないことだ。そして、“物語をハッピーエンド”にすること。そのためには、おまえらしく生きることだ」

「あたし、らしく?」

「そう。ちっぽけな自分も、自信がない自分も、卑屈な自分とも一緒に生きるんだ。自分を犠牲にせずに。おまえのしあわせに、アズラエルたちが不可欠なのと同じくらい、おまえの存在も、あいつらの幸福には不可欠なんだぞ。それを忘れるな」