ルナが目覚めると、すでにふたりはベッドにいなかった。シャワー室の方から水音が聞こえ、悪態と同時に、アズラエルは歯ブラシを口に突っ込んだままルナのまえに姿を現した。起き抜けから口げんかをする相手などグレンに決まっている。シャワーをつかっているのは、グレンか。

 

 「おはよう、ルゥ」

 「――おはよ」

 目を擦りながらルナはあいさつをした。

 

ほどなくして、きのうの貫頭衣だけ着たまま、頭をタオルで拭きながら出てきたグレンも、歯磨き中のアズラエルも、昨夜のくたびれはすっかり吹き飛んでいるようだった。

よく寝たはずなのに、まだ目覚めていないのはルナだ。口をもぐもぐさせながらベッドに腰掛け、ぼーっとあらぬところを見ていると、グレンが、「おはようハニー」と唇に(!)キスしてきたので、アズラエルはグレンの胸ぐらをつかんだ。「あにぼぼずぼば!」歯磨き中に凄むのはよくない。なにをいっているか、さっぱりわからない。

 「けんかは、いけません……」

 ルナは目をしょぼしょぼさせて言った。すっかり元気を取りもどした猛獣には、子ウサギのぼんやり声など届きもしない。

 

 「ルナ、起きてるか!?」

 ルナは今度こそ目が覚めた。部屋に飛び込んできたのはピエトだった。きのういろいろあったのは事実だが、ルナはピエトのことをすっかり忘れていた。母親失格のうさぎは、「おはようルナ!」と飛びついてきた子うさぎを膝に乗っけて、「ごめんね、いま起きたばっかり。きのうどこにいたの。どこで寝てた?」と矢継ぎ早に質問した。

 

 「えっと、あの辺」

 とピエトは、開け放たれたベランダ側の扉から見える、宿舎のひとつを指さした。

 「俺と同じラグバダ族の奴らの家。ともだちになったんだ! ピピと同じ年! それから、アノールとケトゥインと、フィフィ族のヤツとも!」

 「そっか、良かったね」

 ペリドットが言っていたように、だれかのお母さんが、ピエトも一緒に寝かせてくれたのか。

 「ルナ、俺、薬飲まなきゃ」

 「そうだ!」

 ピエトは昨夜、薬を飲んでいない。ルナはあわててポーチを取り出すと、中から薬を出してピエトに渡した。ピエトは、ルナの飲みさしのミネラルウォーターで薬を飲んだ。

 

 「あれ? セルゲイ先生と、カレンは?」

 ピエトは今気づいたように聞いた。ルナは一瞬、言うべきか詰まったが、口を漱いでいるアズラエルにかわって、グレンが言った。

 「カレンは昨夜、病院に行った。帰りは見舞いに寄って、帰るぞ」

 「びょうき?」

 「ああ。――宴会の最中に倒れてな。昨夜のうちに、セルゲイが病院に連れて行った」

 グレンが病名を伏せてくれたことは、ルナにとってたすかった。ピエトとカレンは同じアバド病――ペリドットが昨日言ったことが確かなら、カレンのそれは、「治らない病」なのだと。

 ピピを失ったことで絶望していたが、ルナたちと暮らすことでやっと生きる希望を見出し、今は一生懸命アバド病を治そうとしているピエトの前で、治らない病の話などしたくない。

 だがピエトは、ミネラルウォーターの瓶の口を齧りながら、おずおずとグレンに聞いた。

 

 「なあ――もしかして――カレンってアバド病?」

 

 大人たちは、一瞬でも動揺してしまった。洗面所からもどってきたアズラエルもだ。ピエトは言ってから、大人たちの顔色を見て、やはり言ってはいけないことだったかと決まり悪げにうつむいた。

 

 「なんで、おまえはそう思ったんだ」

 グレンが、怒ってないぞという声で聞くと、ピエトはためらいがちに告げた。

 「このあいだ、メシ食った後、俺と同じ薬飲んでた……」

 ルナとグレンは、顔を見合わせた。子どもというものは、大人が見落としていることをけっこう見ている。

 「カレンも病気なのかって聞いたら、カレンは、これは――えいよう? ほじょ? なんとかだって」

 「栄養補助食品?」

「そういう感じの名前。カレンはすぐ隠したけど、薬の袋とか、色とか、俺のアバド病の薬と同じだった」

俺、まちがってなんかねえもん、とピエトは口を尖らせた。

 

「でもおまえは、だれにもそのことを言わなかった」

アズラエルが言うと、ピエトは頷いた。

「……カレン、あんまりみんなに知られたくないのかなって思った。俺たちの故郷でも、アバド病にかかると隠すヤツがいるよ。俺の集落はそうでもないけど、ちかくのエラドラシスのところなんか、黒い悪魔の呪いだっていって、閉じ込められちまうから。だから、かくしたい気持ちもわかるよ」

 「……よく内緒にしたね、いいこ」

 ルナが頭を撫でると、ピエトは嬉しそうな顔をした。

 

 ピエトがアバド病だと言うことは、皆は知っている。セルゲイたちが引っ越してきた日に、ピエトの自己紹介とともに告げていた。だがカレンは、そのときも不自然な様子は見せなかった。ピエトがアバド病と聞いても、セルゲイたちと同じく「大変だね……あんな小さい子が」と言い、「でも治る病気だ、心配ないよ」とピエトを励ましていたのだ。

 

 カレンのそれは――治らない、病なのに。

 

 「よし、じゃあ朝メシ食って、バリバリ鳥を買って、カレンの見舞いに行くぞ」

 アズラエルが伸びをし、ルナはピエトに言った。

 「バリバリ鳥を買って、シチューを作ろうね」

 「うん! バリバリ鳥の血は、アバド病にいいんだ!」

 ピエトがうれしそうに叫ぶ。

 「カレンも良くなるよ! 俺も!」

 ルナは、いつものように元気よく「うん!」とは言えず、「そうだね」とピエトの手を握ることしかできなかった。