カレンは目覚めた。 病院のベッドのうえでだ。消毒液の匂いをひさしぶりに嗅いだ。エレナの出産以来――そのまえは、L20の病院――もっとさかのぼれば。この匂いに慣れなければいけない原因となる病が発覚した、L85のアバド鉱山近くの、陸軍病院――。 「カレン、具合はどう」 セルゲイが、憔悴した顔で自分をのぞき込んでいた。カレンは申し訳ないことをしたと思った。なによりもセルゲイにだ。自分の身に何かあったら、面倒を背負い込むのはセルゲイだ。自分の身をひとつの星の首相からまかされている、セルゲイの立場を、カレンはまた慮らなかった。 「ごめん――ほんとに。あたしはだいじょうぶ」 身を起こす。大丈夫な証拠だ。カレンがいるのは集中治療室ではなく、ただの病室。意識不明で集中治療室、とでもなったらだいじょうぶ、なんて言葉は言えないが、このとおり動けるし、気分も悪くない。 「また、派手に吐いちまったな。ルナがびっくりしてなきゃいいけど」 「……」 セルゲイは顔を曇らせ、カレンに寝るよう促した。 日は高い。あれから何時間たった――カレンは昼近いと思ったが、まだ十時にもなっていなかった。 セルゲイの顔がげっそりしていて、目の下には隈があった。彼は寝ていないだろうし、カレンを心配するあまり、必要以上にやつれたに違いなかった。 「どうしよ、セルゲイ」 「なにが?」 「グレンたちにバレちゃった」 「……」 セルゲイは困ったように微笑し、 「潮時ってことじゃない?」 「いやだなあ。アイツら、変に気をつかって、あたしを病人扱いしたらどうしよう」 「しかたがない。事実、病人なんだから」 「……ルナなんか、ホントお母さんみたいに、心配してくれそうだよな……」 カレンの目の端から、涙がひとすじ、零れた。 「ごめん、マジで……あたしもう、ひねくれたこと、言わないよ。昨日はホントにバカなこと、言ったとおもう……」 「うん。反省してるならいい。許すよ」 昨夜は、セルゲイも頭を抱えてしまうほどの話を聞いたのだ。カレンの気持ちが、過度に高ぶっていたとしても無理はない。 「義母さんも、アミザも、あたしのこと一生懸命守ろうとしてくれてるの、分かる。でも、正直こたえた……地球行き宇宙船に乗れって言われたときには」 「……」 「あたしの病気にも、後継者問題にも、もう匙を投げちゃったんじゃないかなって思った。それでなくても、義母さんはとっくの昔からひどく傷ついてる……あたしがいなければ、どれだけコトが楽だったか。正当な後継者はあたしだけど、一族はみなアミザを後押ししてる。あたしが、いなければ、」 ――すべては、丸く収まるんだ。 カレンは喉を詰まらせた。 「そう思うのなら、このまま地球行き宇宙船に乗っていればいい」 セルゲイは、優しくカレンの髪を梳いた。 「ここには、君を疎む人間は一人もいない。君を邪魔に思う人間も。マッケランの跡取りだとか、君のお母さんのことで、君を穿った目で見る人間もいない」 「……」 「アズラエルもグレンも君のいいケンカ仲間。ジュリという可愛い妹件彼女がいて、クラウドのくどい解説を聞きながらみんなでテレビを見る。ミシェルちゃんとたわいないことを話しながら食器を洗って、ピエトを連れて買い物に行って、ルナちゃんがおいしいご飯を作ってくれる。ラガーに行けば飲み仲間がいる。オルティスも、バグムントもいい人だ。最近会ってないけど、ミシェルもロイドも、いつあっても変わらない態度で接してくれる。バーベキューパーティーを、またやろう。――そして君は、このまま宇宙船で暮らして、地球に行く」 セルゲイの長い指が、カレンの頬を撫でた。セルゲイは初めてそうした。最大限の慈しみを込めて――だが、男としての愛情を、指先から微塵もこぼさずに。 「――夢みたいな生活だな」 カレンは泣き笑いの表情でつぶやいた。 「その夢みたいな生活は、夢じゃなくて、現実なんだ。わかるだろ」 カレンは涙を拭った。――夢のよう。ほんとうに。 アズラエルやグレンとどつきあって、ジュリがなにかおかしいことを言って、みんなで笑って、――ルナが、おいしいコーヒーを淹れてくれる。おいしい、ルナのごはん。 ミシェルはどこかアミザに似ていて、いっしょにいると落ち着く。 クラウドの理屈っぽい話も、なくなるとさみしい。ピエトみたいな弟がいたら楽しい。 エレナとルーイと暮らした生活も、それはそれは楽しかった。 にぎやかで明るくて――なんて、夢みたいな生活。 「……ずっと、続けばいいのに」 「続くんだよ。君が、宇宙船を降りなければ」 「……」 「あたしのそばには――セルゲイがいるの?」 「そう。俺は、ずっと君のそばにいるよ。ぜったいに、一生、君のそばから離れないから……」 「なんだか、プロポーズみたいだな」 カレンはおかしげに笑った。 「そう思っても、いいんだ」 「……あたしは、女としてあんたを受け入れることはできないのに?」 「俺は、君の友人として、一生傍にいるといった」 「――ルナは」 ルナはどうするの――あんたの、ルナへの想いは。 カレンが穏やかに聞くと、セルゲイはしばらく黙し、言った。 「君が宇宙船をおりたら、俺も君と一緒に宇宙船を降りなきゃいけない」 カレンは目を見開いた。考えてもいなかった、という顔だ。 「君が、ルナちゃんを守りたいと願うなら、このまま宇宙船にいて。俺もルナちゃんを守りたい。それは同じだろう」 「セルゲイ、」 カレンは腕で瞼を覆った。 「あんたは、この宇宙船に残っていいんだよ」 セルゲイは、カレンの、目を覆った腕を引き剥がした。多少、強引に。 「いい――カレン。俺の目を見て」 セルゲイの漆黒の目が、カレンを見据えていた。 「君が宇宙船を降りるなら、俺も降りる」 「セルゲイ――」 「俺は君を独りにはしない。言っただろう、俺は君のそばにいる」 「ルナは、」 「ルナには、アズラエルがいる」 カレンは困ったようにセルゲイを見返し、 「あたしには、あんたを縛り付ける理由なんてない。――あたしは男も女も好きになれない。あんたの恋人にもなれない」 「俺は君の友人だ――恋人じゃない」 セルゲイはきっぱりと告げたが、カレンは困惑した顔で、セルゲイから目を反らしていた。 |