百五話 孤高のキリン U



 

カレンは目覚めた。

 病院のベッドのうえでだ。消毒液の匂いをひさしぶりに嗅いだ。エレナの出産以来――そのまえは、L20の病院――もっとさかのぼれば。この匂いに慣れなければいけない原因となる病が発覚した、L85のアバド鉱山近くの、陸軍病院――。

 

 「カレン、具合はどう」

 セルゲイが、憔悴した顔で自分をのぞき込んでいた。カレンは申し訳ないことをしたと思った。なによりもセルゲイにだ。自分の身に何かあったら、面倒を背負い込むのはセルゲイだ。自分の身をひとつの星の首相からまかされている、セルゲイの立場を、カレンはまた慮らなかった。

 「ごめん――ほんとに。あたしはだいじょうぶ」

 身を起こす。大丈夫な証拠だ。カレンがいるのは集中治療室ではなく、ただの病室。意識不明で集中治療室、とでもなったらだいじょうぶ、なんて言葉は言えないが、このとおり動けるし、気分も悪くない。

 

 「また、派手に吐いちまったな。ルナがびっくりしてなきゃいいけど」

 「……」

 セルゲイは顔を曇らせ、カレンに寝るよう促した。

 日は高い。あれから何時間たった――カレンは昼近いと思ったが、まだ十時にもなっていなかった。

セルゲイの顔がげっそりしていて、目の下には隈があった。彼は寝ていないだろうし、カレンを心配するあまり、必要以上にやつれたに違いなかった。

 

 「どうしよ、セルゲイ」

 「なにが?」

 「グレンたちにバレちゃった」

 「……」

 セルゲイは困ったように微笑し、

 「潮時ってことじゃない?」

 「いやだなあ。アイツら、変に気をつかって、あたしを病人扱いしたらどうしよう」

 「しかたがない。事実、病人なんだから」

 「……ルナなんか、ホントお母さんみたいに、心配してくれそうだよな……」

 カレンの目の端から、涙がひとすじ、零れた。

 「ごめん、マジで……あたしもう、ひねくれたこと、言わないよ。昨日はホントにバカなこと、言ったとおもう……」

 「うん。反省してるならいい。許すよ」

 昨夜は、セルゲイも頭を抱えてしまうほどの話を聞いたのだ。カレンの気持ちが、過度に高ぶっていたとしても無理はない。

 

 「義母さんも、アミザも、あたしのこと一生懸命守ろうとしてくれてるの、分かる。でも、正直こたえた……地球行き宇宙船に乗れって言われたときには」

 「……」

 「あたしの病気にも、後継者問題にも、もう匙を投げちゃったんじゃないかなって思った。それでなくても、義母さんはとっくの昔からひどく傷ついてる……あたしがいなければ、どれだけコトが楽だったか。正当な後継者はあたしだけど、一族はみなアミザを後押ししてる。あたしが、いなければ、」

 

 ――すべては、丸く収まるんだ。

 カレンは喉を詰まらせた。

 

 「そう思うのなら、このまま地球行き宇宙船に乗っていればいい」

 セルゲイは、優しくカレンの髪を梳いた。

 「ここには、君を疎む人間は一人もいない。君を邪魔に思う人間も。マッケランの跡取りだとか、君のお母さんのことで、君を穿った目で見る人間もいない」

 「……」

 「アズラエルもグレンも君のいいケンカ仲間。ジュリという可愛い妹件彼女がいて、クラウドのくどい解説を聞きながらみんなでテレビを見る。ミシェルちゃんとたわいないことを話しながら食器を洗って、ピエトを連れて買い物に行って、ルナちゃんがおいしいご飯を作ってくれる。ラガーに行けば飲み仲間がいる。オルティスも、バグムントもいい人だ。最近会ってないけど、ミシェルもロイドも、いつあっても変わらない態度で接してくれる。バーベキューパーティーを、またやろう。――そして君は、このまま宇宙船で暮らして、地球に行く」

 セルゲイの長い指が、カレンの頬を撫でた。セルゲイは初めてそうした。最大限の慈しみを込めて――だが、男としての愛情を、指先から微塵もこぼさずに。

 

「――夢みたいな生活だな」

カレンは泣き笑いの表情でつぶやいた。

「その夢みたいな生活は、夢じゃなくて、現実なんだ。わかるだろ」

 

カレンは涙を拭った。――夢のよう。ほんとうに。

アズラエルやグレンとどつきあって、ジュリがなにかおかしいことを言って、みんなで笑って、――ルナが、おいしいコーヒーを淹れてくれる。おいしい、ルナのごはん。

ミシェルはどこかアミザに似ていて、いっしょにいると落ち着く。

クラウドの理屈っぽい話も、なくなるとさみしい。ピエトみたいな弟がいたら楽しい。

エレナとルーイと暮らした生活も、それはそれは楽しかった。

にぎやかで明るくて――なんて、夢みたいな生活。

 

「……ずっと、続けばいいのに」

「続くんだよ。君が、宇宙船を降りなければ」

「……」

 「あたしのそばには――セルゲイがいるの?」

 「そう。俺は、ずっと君のそばにいるよ。ぜったいに、一生、君のそばから離れないから……」

 「なんだか、プロポーズみたいだな」

 カレンはおかしげに笑った。

 「そう思っても、いいんだ」

 「……あたしは、女としてあんたを受け入れることはできないのに?」

 「俺は、君の友人として、一生傍にいるといった」

 

 「――ルナは」

 ルナはどうするの――あんたの、ルナへの想いは。

 

 カレンが穏やかに聞くと、セルゲイはしばらく黙し、言った。

 「君が宇宙船をおりたら、俺も君と一緒に宇宙船を降りなきゃいけない」

 カレンは目を見開いた。考えてもいなかった、という顔だ。

 「君が、ルナちゃんを守りたいと願うなら、このまま宇宙船にいて。俺もルナちゃんを守りたい。それは同じだろう」

 

 「セルゲイ、」

 カレンは腕で瞼を覆った。

 「あんたは、この宇宙船に残っていいんだよ」

 

 セルゲイは、カレンの、目を覆った腕を引き剥がした。多少、強引に。

 「いい――カレン。俺の目を見て」

 セルゲイの漆黒の目が、カレンを見据えていた。

 「君が宇宙船を降りるなら、俺も降りる」

 「セルゲイ――」

 「俺は君を独りにはしない。言っただろう、俺は君のそばにいる」

 「ルナは、」

 「ルナには、アズラエルがいる」

 カレンは困ったようにセルゲイを見返し、

「あたしには、あんたを縛り付ける理由なんてない。――あたしは男も女も好きになれない。あんたの恋人にもなれない」

「俺は君の友人だ――恋人じゃない」

セルゲイはきっぱりと告げたが、カレンは困惑した顔で、セルゲイから目を反らしていた。