「アズ! グレン!!」

 

 アズラエルとグレンは、錯覚かとおもった。

 魔王と入れ替わりにやってきた救世主の声を聞いて。

 最後にルナの声が聞きたかった――二人は申し合わせたようにそう思い、動かない腕を、最後の力を振り絞ってあげると――ルナが二人の腕をとった。

 「しっかりして!」

 

 ――助けてあげられるのは、十段だけ――

 

 不意に誰かの声がして、ルナは「え?」と神社のほうを振り返り、べしゃっとふたりの重い腕を落としてしまった。

 「うっ!」

 「痛ェ……」

 ひどい恋人だ。最後だっていうのに、そんなに乱暴に振り落さなくてもいいじゃないか。

 ふたりはさすがにそう思ったが、急に、上からの圧迫が遠のいた。

 

 「――え?」

 

 先に起き上がったのは、グレンだ。すさまじい圧迫感は、消え失せていた。さんざん痛めつけられていたせいで、身体はギシギシいったが、動ける。足も重かったが、先の比ではない。軽かった。

 

 「ルナ――お前、何したんだ」

 アズラエルもゆっくり――立ちあがって言った。身体の軽さに、驚き呆れながら。

 

 「あっ! 立った!」

 ミシェルが叫ぶ。

 「アズ、グレン! 立てるの!?」

 クラウドの声に、グレンは不思議そうな顔で自身の両足を見、うなずいた。

 

 「助けてあげられるのは、十段だけ!」

 ルナは、アズラエルとグレンの手を取って、言った。

 「は?」

 「十段だけなの、ごめんね」

 そういって、ルナは二人の手を取って、一段ずつ登り始めた。ふたりはルナに手を引かれるようにして、階段を上がった――驚くほど楽に。二人が普段、何の気負いもなく階段を上がる速度で――。

 

 「きゃあ!」

 九十三段目を超えようとしたところで、ルナが悲鳴をあげて転んだ。

 「ルゥ!」

 「ルナ!!」

 転んで手を離してしまったルナにあわてて手を伸ばしたふたりは、ふたたび襲ってきた恐るべき重量感に、こちらも悲鳴をあげて倒れ伏した。

 だが、ルナが二人の手を握り返してくる。するとまた、急に重量感が消えた。今度は、三分の二ほどに。

 

 ――あと、十五段。

 

 「あと十五段だ! だれかふたりくらい、助けられるひとはいないかな……」

 クラウドは、さっきすでに、バグムントとラガーの店長に電話していたが、つながらない。チャンにも、連絡がつかなかった。

 

 「ああ〜っ! なんでこんなときにあたしと交代しないのよ! 百何十目代だかのサルーディーバのバカ! 青い猫のバカ!!」

 ミシェルは奥殿に向かって涙目で絶叫していたが、反応はまったくなかった。

 

 「俺がもう一回――」

 セルゲイが階下に降りようとしたのを、アントニオが止める。

 「無理です。“普通の人間”では、彼らは持ちあがらない。あなたが彼らを持ち上げるには、もういちど夜の神の手助けが必要だ。それはもう叶わない」

 「どうして、」

 セルゲイは思わず願ってしまった。いままで、迷惑にしか思っていなかった夜の神に、今一度身体を貸すことを願った。だが――。

 

 「術者の力が足りない」

 アントニオの辛そうな顔を見て、セルゲイも口をつぐんだ。

「神を降臨させる術者の力が及ばないので、俺もセルゲイさんも十段しか手助けできない。……そういうことです、分かってください」

セルゲイは何か言いたげに唇を動かしたが、悔しげに俯いて階下を睨んだ。

その刹那、ボッと音がしたので、セルゲイが、音がした方を探すと、夜の神の塔の火が、不規則に消えてはつき、消えてはつきをくりかえした。

身体を貸したことのあるセルゲイにはわかった。

(――あなたも、悔しいのか)

――彼らを、助けられないことが。

 

 (ペリドットの力では、ここまでだということなんだな)

 アントニオは、しずかに階下を見つめていた。

 

 今はいい。今回は、アズラエルとグレンの二人は、最終的にルナが助けるだろう。だが、本番はそうはいかない。

 ひとつでも歯車が狂えば、ラグ・ヴァーダの武神を倒すまえに、自分たちが神の力によって自滅するか、力及ばず敗れ去る。

 

 ララは火のついていないタバコを噛んだまま、腕を組んで階下を見守っている。

 「ララ様……」

 シグルスの電話にも、誰も出ない。彼はララに声をかけたが、ララは真剣な瞳で階下を見つめたまま、厳かに言った。

 

 「ルーシーを信じな。あの人は、かならずなんとかしてくれる」

 

 

 「あ――上がって」

 ルナは苦しそうだ。

 「ルナ、手を離せ!」

 アズラエルは叫んだ。自分からでは振り払えない。上からの重さと、ルナが持つ不思議な力のせいで、手を離そうと思っても外れないのだ。

 

 「あたしはだいじょうぶ!」

 グレンもアズラエルも目を見張った。ルナは涙をこぼしながら二人の手を握って離さない。火事場のクソ力とはこういうものだろうか。ふたりは、ルナに引き上げられるときがくるなど、信じられなかった。ルナが、顔を真っ赤にしながらも、八十キロ級の男ふたりを、片手で引き上げ続ける。

 

 アズラエルとグレンは、もうろうとした頭で、とんでもないものを見た。二人は後々まで、「あれはくたびれすぎて視神経までイカレたんだ」と言っている。

 

 ルナの背後に、ルナの顔そっくりの、厳つい大男が現れたからだ。ルナとは思えない――いや、思いたくない、アズラエル、いや父親のアダム級の大男だ。二メートルはある、巨躯の男。彼はルナそっくりの愛嬌のある童顔で、L03の衣装を着ている。

 

 階段上で、皆は、ある意味すごいものを見た。

 百五十センチくらいの小柄な女の子が、「よいしょ」と可愛い気合いをかけて、百八十センチ台の大男二人の腕を担ぎ、ひきずるように、階段を上りだしたのだ。

 

 「――あれは、二千年前のイシュメルだ」

 

 アントニオが思わずつぶやいた。彼にも、この現象は予想外だったようだ。絞り出すようにそう言った。

「なんだって!?」

重なるクラウドの絶叫。

 

「あれが――二千年前のイシュメル様――」

階段上の皆にも、下で見守る者たちにも、その姿ははっきりと見えた。彼らに見えているのは、ルナではなく巨躯の男だ。男は子どもをふたり背負うかのように、軽々と階段を上がっていく。だが、百段に達したところで、その姿はふっと消えた。