昼の神が拝殿内へ姿を消したとたん、ゴゴゴ……と雷の音がした。一気に、黒雲が空を覆っていく。ぽつ、ぽつと雨が降り出したかと思うと、一気にバケツをひっくり返したような大雨になった。

ルナはあわてて、ミシェルを引きずって、拝殿へあげた。雨の当たらないところへミシェルを寝かせ、ルナは濡れるのも構わず階段までもどった。やじ馬たちも、雨に濡れても、この場を移動しない。息をのんでこの“儀式”を見つめている。

 

 「だいじょうぶですか!? 今そちらへ向かいますから!」

 不可思議な世界に現れた、突如現実に引き戻すようなサイレンの音。ルナは階段の下に救急車が到着したのを見た。やはり先ほどだれかが救急車を呼んだのか。担架を持った救急隊員が、階段を上がろうとしたが――。

 

 「ちょっと待って! 階段からは来ないで!」

 ニックが必死の思いで叫んだが、間に合わなかった。救急隊員は一歩、階段に足を踏み入れた途端に、それ以上先に行けないことを知った。

 足が、石畳にはりついて動かなくなってしまったのだ。

 それ以上の侵入を拒むように、救急隊員のすぐ隣にあった樹木に雷が落ちた。バリバリと木肌が裂けて、階下のやじ馬から悲鳴が上がった。

 音といかずちの衝撃を受けた救急隊員一人が卒倒し、残り二人が大慌てで彼を救急車に担ぎ込んだ。

 「なんとかしてくれ! 足が動かない!!」

 びしょぬれになりながら悲鳴をあげ、無茶苦茶にはりついた足を取ろうともがいているのは、先頭に立った救急隊員。

 「なっ……なんなんだよ、これは!!」

 三人がかりで彼の足を階段から剥がそうとしても、外れない。

 「やめてくれ! 足がもげそうだ!」

 「あんた、この階段上がったことないのかい!?」

 やじ馬から声が上がるが、意味の分からない救急隊員はがむしゃらに足を動かすだけだ。ほかの救急隊員も、この非常事態に、一気にパニックに陥った。

 「そんな……むりやり剥がしちゃいかん!」

 「いったい、何が起こったんだ!?」

 「あんた、K05区のもんじゃないだろう! どっから来た!? この階段じゃなくて、裏道から上がったらよかろうに!」

 

やじ馬も加わって、パニックが倍加した状況で――どうあがいても階段から剥がれないその足を、片手でひょいと持ち上げたのは、たった今やじ馬に加わった、スーツ姿の男だった。

 「――!?」

 三人がかりで剥がそうと思っても剥がれなかった足が。

 その男が右手で乱暴に持ち上げただけで、すっと離れた。

 

 「あ、ありがとうございます!! ありがとうございます!!」

 平伏しかねない勢いで感謝の涙――雨にまみれてどっちかわからない――を流す救急隊員に、ララは怒鳴った。

 「一度もこの階段を自力で上がったことがないやつが、人を助けになんぞあがるな! 面倒ごとを増やすだけだよ!! ――なにやってんだ? あいつらは」

 

 ララには、石像のすがたは見えなかった。だが階段の中腹に怪我人が何人もいて、そのなかには見知った顔もいる。

 おそらくこの階段の洗礼を受けたのだろうが、ここまで大ごとになっている状況に出くわしたのは、ララも初めてだった。

 ララは、シグルスにこの場で待っているようにいい、階段を上がって行った。

 「必要になったらすぐ呼ぶから、ここにおいで」

 「はい。承知しました、ララ様」

 

 

 「――ルナ!!」

 ミシェルが、隣に来ていた。ルナはびしょぬれの顔を拭いながら言った。

 「ミシェル、だいじょうぶなの?」

 「うん、今目ェ覚めた。さっきなにがあったかは、もうさっぱりだけど」

 ミシェルも顔中に落ちてくる水滴を払いのけながらそういって、階下を見た。

 「ちょ――ヤバくない!? あれ!」

 クラウドとおじいさんが、グレンとアズラエルの下敷きになっている。

 「ルナ、ここにいて!」

 「え!? あ、ミシェル!!」

 ミシェルはバタバタと階段を下りて行った。そのときだ。

ミシェルもルナも――そしてこの階段を上と下で囲むやじ馬たちも――熱風を感じた。

 石像の圧迫感とは違う。巨大な熱の塊が、上から下りてくる感じだ。

 

 「あんたら! 何してンのさ!!」

 ちょうどララが、アズラエルとグレンの下敷きになっている知人二名のマヌケな姿に、呆れ声をあげたときだった。

 「君こそ……何を連れて来たんだ」

 「え?」

 アズラエルの下敷きになって虫の息のクラウドが、ララの背後を見て呆然と呟いた。

 

 ルナもミシェルも見た。ベッタラたちも。石像が見えているやじ馬たちも。

 「うわあ……こりゃすごい」

 ニックも口を開けて、宙を見上げた。

 最初は、それが大きすぎてなんなのか、分からなかったのだ。

 空を覆う、金色の塊。

 キラキラ煌めいているのは、光色の鱗。

 塊に見えたのは、黄金色の龍だった。頭が八つもある――。

 

 「ウソ……夢で見たけど、こんなでかいと思わなかった……」

 ミシェルは頭上を見上げて呆れた。階段すべて――いや、真砂名神社の界隈すべてを覆い尽くすくらいの大きさだ。頭のひとつが、ミシェルの姿を見つけてうれしそうに近寄ってきた。

 「……わ!」

 頭もでかい。真砂名神社の社くらいあるのではないか。龍はララそっくりの笑い方をし、ミシェルにウィンクすると、空に戻って行く。ルナもミシェルと同じ目にあっていた。こちらは足から頭の先までひと舐めされたが。恐ろしく大きい龍のあたまに恐れをなして、ルナの周りから人波が引いた。

 

 「まずったな、傘を持ってくりゃよかった」

 せめて、ずぶぬれの彼らに傘をさしてやろうと思ったララは、舌打ちした。彼は最先端のウエラブル・レインコートを羽織っている。一見すればスーツの上になにも着ていないように見えるが、ララは髪の毛ひとすじたりとも濡れてはいない。手元の端末のボタンを押すだけで、見えないコートに守られた身体はすっかり、雨や雪から免れる。

 豪雨の中で、少しも濡れていないララの姿は、うしろに連れて来た自らの化身と相まって、不思議な力を駆使して雨を避けているようにも見えた。

 

 「ラ、ララ……」

 クラウドが苦しげに言った。

 「アズとグレンを……俺たちの上からどけて」

 「これでいいのかい」

 ララは二人の首根っこをひっつかんで、引き離した。

 「ごふっ、……うあ、」

 クラウドはやっと自力で起き上がれた。そしてすでに泡を吹いて失神していたおじいさんを助け上げ、ララのほうを向いて目を見張った。

 

 「君――すごいね」

 「ン?」

 ララは、アズラエルとグレンの首根っこを持ち上げていたのだが、ここにいたって、ようやくクラウドにも状況の原因がうすぼんやりと見えてきた。

 

 アズラエルとグレンの背にある、巨大な石像――というか、石像の足が。

 そして、その石像を、前足でわしづかみ、持ち上げている八つ頭の龍の姿。

 

 「――やっぱり俺、君を敵に回したくないや」

 「分かりゃいいんだよ、分かりゃ」

 ララはいつも通りの不敵な笑みでにやりと笑い、クラウドの頼みで、アズラエルとグレンの首根っこを引きずったまま、六十三段目まで上がった。

 

 

 「ああこりゃ、ダメだ」

 ララは、六十三段目で、身体がこれ以上動かないことを悟った。それ以上上に上がろうとしても、なにかがララの身体を押し返す。

 「こりゃわたしでも分かるな――これ以上は無理だ」

 「やはり君でも、十段以上は無理か……」

 クラウドがララの携帯で下にいたシグルスを呼び、彼はおじいさんを背負って、真砂名神社の拝殿まで向かった。さいわい、おじいさんは骨も折れていないようだし、内臓の方も影響はなさそうだったが、大事を取って、救急隊員を手配した。むろん彼らには、階段ではなく、別のルートから拝殿に上がってもらう。

 「だ、だいじょうぶじゃ……平気じゃ、平気、」

 階段を上がる途中で意識を取り戻したおじいさんは、シグルスに背負われたまま、階段の頂上に鎮座した。

 「階段を上りはじめた者が上がりきるまで、わしはここを離れるわけにいかんでの」

 

 「うぐおっ!?」

 ララの口から、おっさんのような声が洩れた。八つ頭の龍が消えて、ララの両手を石像の負荷が直撃したのだ。クラウドの手助けで咥えたタバコが食いちぎられ、階段に落ちた。

 意識を失っていたアズラエルとグレンは、階段の石畳に激突した衝撃で、目が覚めた。

 「ぬあっ!?」

 「いてえ!!」

 こちらも、野太い悲鳴。

 

 「ああ、悪いね。あんまり重かったもんで」

 ダイエットしなよと新しいタバコをくわえたララは、「さて、どうしたもんかね……」とまた呻きながら突っ伏してしまった二人を見遣った。