「あと、――四十五段」

 クラウドがつぶやく。百八段ある階段の、六十三段目に来ている。

 「ひとり十段だとして、アントニオとミヒャエル、セルゲイ……」

 「ミヒャエルの仕事はもう終わったよ」

 ララが奥殿の方を指す。クラウドは今初めて気づいた。奥殿にたつ四柱の先端に、火がともっているのだ。

 黒い塔は、夜の神、白銀の塔は月の神。金色の塔は太陽の神――そして、おそらく真昼の神のものである、青い塔の火は、消えていた。




 

 サルーディーバは、屋敷に閉じこもったまま、真砂名神社の異変を感じていた。ベランダに行けば、その光景が見られる。だが、サルーディーバは室内を動こうとしなかった。

 (助けに行けというのですか、神よ)

 サルーディーバの目前には、真昼の女神と月の女神が現れている。サルーディーバがちいさく首を振ると、女神たちは消えた。

 

 (グレン様……)

 あの階段で、グレンが苦しんでいる。アズラエルも。

 夜の神が八十三段目にまで誘えば、サルーディーバが九十三段目まで上らせる。サルーディーバが十段分助ければ、あとはルナが残り十五段を助けるだろう。

 だが、サルーディーバには、助けに行けない理由があった。そうしてはならないのだ。いくら彼らが心配でも。

 (わたくしの目に映るものは、すべて“父”の目にも映る)

 

 ラグ・ヴァーダの武神に、見せてはならない。

 この、アストロスの武神が蘇る儀式を――。

 

 

 

 

 ――おかしな気候だ。だれもかも、そう思った。

 雨雲に覆われ、前が見えなくなるくらい豪雨が続いているのだから、身体が冷えてもおかしくない。なのに、なぜか猛烈な暑さを感じるのだ。

 ふっと、雨が止んだ。

 皆が皆、おどろいて周囲を見回す。傘をさしていたものは、傘をたたんで頭上を見上げた。雨が、いきなり消えるように、止んだのだ。

 

 「ララ! クラウド! おぬしら、すぐに上まで上がれ!」

 おじいさんが金切り声で叫んだ。

 「おまえさんら、倒れておる神官たちをみんなで引き上げてやってくれ」

 野次馬にお願いすると、どっと集団で、階段を下りて行った。

 「ニックとベッタラは下へ行け! あの二人を残して階段から皆下りろ! 下にいる連中も、大路を開けて、みな家屋敷の中へ逃げろ!」

 階段頂上のやじ馬たちも、おじいさんの声に従って、次々奥殿へ続く山道のほうへ避難した。

 

 「急げ! 急がんか!」

 階下では、紅葉庵の店主が、何人かと協力して、救急車の中に寝ている救急隊員を、紅葉庵まで担架ごと運びだした。

 「太陽の神さんが来る。みんな奥までひっこめ! 燃やされるぞ!」

 

 暗雲が、幕を引くようにさあっと晴れ、真夏にしか現れないような強い輝きの太陽が、中天でぎらつきはじめた。

 

 さっきまで雨に打たれて冷え切っていた身体が、今度は全身から汗が噴き出るような暑さに支配されていく。ルナは噴き出る汗を拭った。びしょびしょだった服は、まるで砂漠のような熱気に、一気に乾いた。そして今度は自らの水分で服を濡らすことになった。だれもが布で、自分の衣服の袖で汗を拭っているというのに、シグルスはまるで凍えたような顔をしているのだった。

 

その腕が震えているような気がしたのでルナは、

 「シグルスさん……だいじょうぶですか」

 と聞いてみた。

 シグルスはふっと苦笑した。だが、身体の震えは収まらないようだ。

 「怖いんです――情けない話ですが」

 歯をカチカチと震わせながら彼は言った。

 「わたしは、今、何を目の当たりにしているのですかね――」

 

 

 「あんた! そんなとこにいちゃいかん!」

 真砂名神社のふもとにものすごい人だかりができていて、なんだなんだと足を急がせたセルゲイの前で、その人ごみがさあっと店の中に隠れていく。雨は降ったりやんだり。分厚い黒雲で夜のようになっていたかと思ったら、急に太陽が出てきた。

 なによりも、セルゲイの目をくぎ付けにしたのは、階段にそびえたつ、ふたつの巨大な石像の姿だった。

 

 (何が起こってるんだ?)

 紅葉庵の店主があわてて出てきて、目を白黒させて大路の真ん中に佇んでいたセルゲイを、紅葉庵に引っ張って行った。

 

 「あんた、よその区画の人だね! とんでもないときに観光に来たもんだね、まず、ちょっとの間、ここにおりなさい」

 紅葉庵の店主は、セルゲイに椅子をすすめた。気づけば、この商店街の従業員や、L03の衣装や着物を着たひとたちが、息をひそめて店の奥に落ち着いていた。ガラス張りの店内からは、セルゲイにも階段の様子が少し見えた。

 

 (ペリドットさんは、アズラエルたちを助けに行けと言ったんだけど――まさか、この騒ぎの原因か?)

 セルゲイも、ペリドットからの連絡を受けて、もらいたてのシャイン・カードでここに来たのだった。

 おおざっぱゆえか、説明している時間が今回はなかったのか、「助けろ、急げ」とだけ言われて、セルゲイは病院から飛び出してきた。

 

 「あの――いったい、何が?」

 セルゲイが、もふもふの白ひげに覆われた、派手な衣装の店主にそう聞くと、紅葉庵の看板娘――ヨボヨボのおばあさんが、しわがれた声で言った。

 「今日は、もうまともな観光はあきらめたほうがええよ。神さんが、階段をあがっとるで、」

 「――え?」

 紅葉庵の店主が、大声で喋りはじめた。

「よその人は知らんだろうがね、あの真砂名神社の階段は不思議な階段でね、前世の罪を浄化してくれる階段なんだよ」

 「……」

 セルゲイも、すでにその説明はアントニオから受けている。自身も、這う這うの体で、あの階段を上がった。

 

 「ふつうの人はね、そんなに困ったことにはなりゃしない。多少のぼるのが辛くても、足が重くても、そりゃ、運動不足でごまかされる程度の範囲じゃ。だいたいの人間は、そんな重苦しい前世を持っちゃいない。だがね、かなり古い魂だったり、どっかの王だの、騎士だの、神官だのの前世を持っている人間は、あの階段をのぼるのが難しい場合があるんだよ」

 「はあ……」

 「人をたくさん殺した罪人だったりしてもだな、魂が背負った罪は大きい。でもたいがい、上がれるもんじゃ。上がれないやつもたまにいるけどね。階段の手まえで逃げ出しちまったり、途中で倒れて、わしらに救出されるやつも、たまーにおる。今回のはとくべつじゃ」

 「特別……?」

 「体格のいいわかい兄ちゃんが二人、上ってるんだがね。わしらは、この地区の観光案内人も兼ねとるし、見しらぬ人間が階段をあがろうとしたときは、ここらの商店街のモンは必ず様子をみとる。上がれんようになったら助けんといかんから。あの兄ちゃん二人は、まえも一回、あがっとる。だが今回は、とんでもないモンが出てきおった」

 紅葉庵の店主は、だんだん興奮してきた。隅に引っ込んでいた人たちも、集まってきて口々に喋り出した。

 

 「ありゃァ、前世に神さんを持っとる!」

 「……」

 「神さんじゃ、神さん! アストロスの神さんじゃ!」

 「だってあれは、アストロスの遺跡にある石像よ! あたし、アストロス行ったとき、見たもの!」

 「あんまり大きな魂じゃもんで、ほかの神さんの手助けがないと、上がれんのじゃ、」

 「真昼の神様、はじめて肉眼で見ました、私! ――美しかった――」

 「神さんの魂はあっても、もっとるのは人間じゃからな。――いや、神さんの魂じゃから、アレを背負って上がれるんか?」

 「金いろの龍! 見ましたか!? ものすごかったですよね!!」

 

 彼らは、めのまえにいる人のよさそうな好青年も、「神さん」だとは知らずに好き勝手に喋っていた――よりにもよって、一番おそろしく、ミシェルには後ほど、「ラスボス」と呼ばれ、畏怖される存在ではあっても、「神さん」と親しげに話しかけられる風貌ではない、夜の神相手に――。

 

 一斉に喋りまくられ、セルゲイはたじたじとなりながら、

 「そ――それで、皆さん、ここに避難しているんですか?」

 と聞いた。

 集団のお喋りが、さっきの雨のようにピタリとやんだかと思うと、またいっせいにさえずり出した。

 

 「太陽の神さんが出てくるんじゃよ!」

 ツルッパゲのおじいさんが、杖を打ち鳴らしながら叫んだ。