百十話 迷える子羊



 

 ――まるで間に分厚いガラスでもあるように、サルーディーバとグレンは触れ合えない。

 

サルーディーバは、幼いころから一人の男の成長記録を見ていた。男の前世と、現在を見ていた。たまに未来を見ることもあった。男が愛する女性を見ていた。でもまさか、ガラスの向こうのその男が、自分の成長記録を同じように見ているとは、思いもしなかった。

今もだ。

自分と似ているひとだと思った。ちいさなころから親と離され、一族の長として育てられる。そこには確立した未来があり、自分の望みがつくる未来ではなかった。

まるで予定調和のように決められた未来。

グレンはサルーディーバの代弁者だった。

サルーディーバが心に押し込めていたことを、彼はいつでも平気で口にした。決められた未来に関する疑問、抗議、反駁、そして挑戦。未来を変えようとし、何度も現実に打ちのめされながら、グレンはそれでも自身で未来をつくっていこうとした。

彼が打ちのめされるたびに自分も打ちのめされたようで心が痛んだ。

彼が友人と楽しく戯れているとき、自分にも友人ができたような気がして、楽しかった。

彼が恋人を愛したとき、まるで自分が愛されているような気がした。

彼はいつでも、サルーディーバの代弁者だった。

 

――いつから惹かれていたのか、サルーディーバにもわからない。

 

グレンはたまに見る、ガラスの向こうの女の子はまるで自分のようで、あまり見ていたくはなかった。

つらいときにも笑まねばならない、慈悲の微笑みが、ひどく痛々しかった。

彼女は、グレンの百倍は物わかりよく、理不尽な現実を受け入れていた。

あきらめどころか、自身の意志がないことが、彼女の堅固な意志だった。

君主として「成長」を遂げるたびに彼女の心が失われていくのを哀れに感じていた。

そんな彼女が、はじめて周囲に逆らった。

だがそれは、自分を守るための戦いではなかった。

彼女が老人たちにさからったのを見たとき、バカなことをする女だと思った。

女ゆえに、「君主」とは認められない世界で、それでも、顔も見たこともないおおまかな人類と大義のために、最後の自由さえ奪われようとしている。

いたいたしさを通り越して、抱きしめてやりたくなった。

自分を抱きしめることはできないけれど、この女を抱きしめれば、すこしは気がまぎれるだろうか。

ルナのように、餓えるほど欲しくなる女ではない。

だが、涙が出てくるほど、愛しいとおもった女だった。

 

グレンが、よく夢に見る女をサルーディーバだと気付いたのは、なにがどうして、全身骨折して気絶し、ガルダ砂漠の出来事を夢で復習したあとだったのだ。

よく考えれば分かるはずだった。

女が年寄りどもに逆らい、蟄居に追い込まれた顛末も、L03の衣装も、光景も――見間違いようのないオッドアイも。

サルーディーバを髣髴とさせる証はいくらでもあったのに。

だがグレンは、これを現実の光景だと思っていなかっただけだ。

あるとするなら――前世か何かの夢、だと思っていた。

ヘタをしたら、サルーディーバを過去のルナだと思いこんだときもあった。

あの、記憶に鮮明に残る、かずかずの夢は、サルーディーバの成長記録を追った夢だと、ようやく気付いた。

ガルダ砂漠で見た夢に出てきた女は、サルーディーバの幼いころの姿で、はじめてグレンが、サルーディーバの夢を見たときに現れた姿と同じだった。

ガラスの向こうの少女に、話しかけられたのははじめてだった。

いつも、一方的に彼女の様子を眺めているだけで、いくら話しかけても彼女はグレンに気付かなかった。

その彼女が、自分に死なないでと言っている。

そんなに言うなら、死なないでおこうと思ったのだ。

グレンは、ルナかも知れないと思っていた。だが、過去であれ未来であれ、ルナであるはずはなかったのだ。

なぜ、今まで気が付かなかったのだろう。

 K05区で会ったときも、夢の中の女だとは思わなかった。

 真砂名神社ではじめて相対したときも――まさか、サルーディーバが「彼女」だとは、夢にも思わなかったのだ。


 思い込みとは、おそろしいものだ。記憶さえ、都合のいいようにずれさせる。

 

(アンタは、俺とルナが結ばれると念を押してくれたな……)

K05区に行ったとき、彼女は、まるで自分の恋が成就するかのように熱烈に、真剣に、グレンをそう励ましてくれた。

自分が愛しいとおもった女が、自分とほかの女の恋を応援しているというのは、なかなか複雑な心境だと、グレンは思ったのだった。

 

 

 

 

「ペリドットが居ねえじゃねえか」

「ごめん、ペリドットは――ええと、まあ、その、――今席を外してる」

自力で指一本動かせない男二人は、自分たちが怖いから逃げたのだと都合よく思い込んだ。そうだろう、自分たちに会わせる顔がないだろう。ああなることを知っていて、いわゆる実験台につかったわけだ。

ペリドットがせんねんだか、かいきだか、よくわからない術をつかうために。

 

椿の宿に着いたルナたちは、頭を掻きながらミシェルとセルゲイ、カレンにペコペコと頭を下げているアントニオに出くわした。

ミシェルたちはぜんぜん怒っていないようだったが、アントニオは何度も謝っていた。

そこへ憤怒の表情で、車いすの、今回の主役が現れたわけである。

アントニオは二人の顔を見た途端に、畳に額を激突させた。

「このたびは、ほんっとーに申し訳ありませんでした!!」と。

 

「俺たちが完璧に押しつぶされてたら、てめえらは、どう責任とる気だったんだ」

アズラエルの凄みに、アントニオは土下座の姿勢から頭を上げて、小声で言った。

「緊急の折には、俺が太陽の神を“完全に”降ろして、君たちを上まで引き上げる手はずだった」

「……なんでそれを最初からしねえんだ!!」

激怒寸前のアズラエルの絶叫に、

「俺は千転回帰とかZOOカードとか関係なく、太陽の神を完全に降臨させることはできる」

アントニオはどうどう、と両手を広げながら情けない顔で言い訳をした。

「でも、君たちも見ただろ? アレをフルで降ろすと、真砂名神社ほかK05区一帯は大火災になっちまう」

「……」

 

アントニオに太陽の神が降りたのは、数分にも満たない時間だった。なのにふもとの商店街の惨事といったらなかった。太陽のコロナとでも形容したくなる業火が、一瞬であたりを炎上させたのだ。

アントニオの言うように、アレをフルで降ろしたなら、どんな大惨事になっていたことか。

 

「まさか君たちが、あんな急に真砂名神社に来るなんて、こっちも思わなかったんだよ……!」

こちらとしても、予定が大幅にずれた、とアントニオは言い訳がましく零した。

「俺たちには、数日の準備期間があったはずなんだ。セルゲイさんがどれだけ夜の神とリンクできるかとか――大惨事を免れるためには、なにより俺とセルゲイさんのチームワークが不可欠だった」

「てめえが燃やして、セルゲイが鎮火するってやつか」

アントニオがつけた火を、セルゲイが雨を降らせて消していったのを、グレンも覚えていた。突っ伏したままだったが、燃え盛る炎を、豪雨が消していったのは見ていた。

 

「俺たちも、予行練習の練習もなく、予行練習の本番を迎えちゃったんだ。――ホントに謝るから勘弁してほしい。君たちに大けがさせてしまったのはほんとうにすまなかった。けど、命だけはぜったい守る計画だった。信じてくれ」

このとおり! と頭を下げ続けるアントニオに、包帯だらけのミイラふたりは、やっと殺気を消した。

いまさら、アントニオを責めたところで怪我が今日中に全快するわけではない。

だが。

 

「……一言くらい欲しかったよな」

「それは……ほんとに悪かった」

アントニオがふたたび頭を掻いた。

心の準備があれば、また違っただろう。だがアズラエルたちは、アントニオたちも責めても詮無いことも分かっている。ふたりは、それ以上言うのをやめた。

彼らも、ルナと同じく、動物どもが集まって、話し合いをしている夢を見たのだ。

「言ってはならないこと」があるのも、承知している。