(だいじょうぶ、だいじょうぶ……移籍しても、役立たずだって分かれば、すぐ追い出されるはずだわ)

 

だが、そのことで、エルドリウスの顔に泥を塗ることになりはしないだろうか。エルドリウスだけでなく、アイリーンの失望した顔も思い浮かべて、フライヤはますます蒼白になった。気分は重く、沈んでいく。

 

(無理――無理。――あたしには、無理)

 

エルドリウスに、強引にL20に連れてこられたときも、ここまで不安にはならなかった。

いったい、自分に何が起こっているのだろう。

今年、フライヤの身に起きた出来事は、想像を絶することばかりだった。

オリーヴに誘われて、L05の任務に行って、そこからだ。フライヤの世界が変わり始めたのは――。

アダム・ファミリーに在籍して、エルドリウスに出会い、お互いのことも知りあう時間さえなく結婚し、L20に来て。

傭兵だった自分が、L19の名家のひとつであるウィルキンソン家の当主の妻となり、軍部に配属された。庶務部だったが、それでもフライヤにはたいそうな出世だ。

その生活にもろくに慣れないうちに、心理作戦部におつかいに行かされたことがきっかけで、アイリーンに出会った。

最初はアイリーンがとても怖かったけれど、やがて打ち解けて、とてもいい友人になれた。

自分の身に起きた変化の実感を、しみじみと考える暇もなかった。環境の変化に怯えながら、日々のせわしなさに流されてきた。

そして、また自分の身の上が、とんでもない方向に向かおうとしている。

 

(今度は、ミラ様の秘書室だなんて)

 

L20の首相の秘書室である。大学出でもなく、軍人でもなく、傭兵でも末端クラスの落ちこぼれで、引きこもりだったフライヤには、あまりに途方もない話だった。

 

(――あたしには)

――無理。

――怖い。

 

庶務部に所属することになった最初の日も、軍人の中に入っていくのが怖くて、朝食も喉をとおらなかった。

ただただ、エルドリウスに恥をかかせまいと――母親の足の手術の手配をしてくれたエルドリウスに迷惑をかけまいと、その一心で職場に向かった。

ミラの秘書室など、軍人のなかでも、エリートの巣窟だ。

恐怖から来る震えは、庶務部に配属されたときの比ではなかった。

 

(ミラさまの秘書室になんて――行きたくない)

 

もう一度、フライヤがその小さな肩をすぼめたとき、フライヤの目のまえを、明るい笑い声を立てて、学生が歩いて行った。

フライヤは、そのひどく楽しそうな声にはっと顔を上げ、目を細めた。

(なつかしい……あたしにも、あんな頃があったな)

地はグレーだが、赤の刺繍がついた華やかな軍服は、ここ首都、マスカレード第一軍事教練学校の生徒だ。

二十二歳のフライヤにとって、学生時代はほんの数年前のことなのだが、――シンシアが亡くなってからの数年は、まるで数十年のように、フライヤには感じられたのだ。

 

(シンシア)

フライヤは、楽しげに歩くそのふたりが、シンシアと学生時代の自分に重なった。

とても似ていた――二人の持つ雰囲気が。

背の高い方は、切りそろえた黒髪をポニーテールに結わえていて、小さな方は眼鏡をかけて、一本結びにしている。どちらかといえば、地味な装いのふたり。だが、似ていた。ポニーテールの少女の方が、特に。

 

(シンシア――!)

 

 

「……フライヤ?」

名を呼ばれて、フライヤは我に返った。

「あ――ゴ、ゴメン」

フライヤは、思い出にふけっていた自分をごまかすように、ケーキにフォークを突き立てた。そして、自分が言いたかったことを思い出した。

「もしかして、今日のは……栄転の、お祝い?」

 

フライヤは、次の日、ミラの秘書室へ行った。そして、栄転を――謹んで、受けた。

エルドリウスには報告したが、アイリーンにはまだだった。

今日、話そうと思っていたのだ。

 

アイリーンは、自分もケーキをフォークでくずし、一口食べてから、「僕はいつものオーソドックスなやつが好きだな」と言った。

「お祝いというか――お祝いは、また別さ」

「え?」

「――フライヤがミラさまの秘書室に行ったら、もうお茶会は終わりだろ? ……これからは、滅多に会えなくなるかもしれない。だから今日は、ふたりでしたかったことを、思い切りするつもりだったんだ」

アイリーンの寂しげな微笑に、フライヤは、フォークのケーキの破片を刺したまま、口を開けて固まった。

「アイリーンは、ミラ様から、ぜんぶ聞いているわけじゃないのね?」

「え?」

今度は、アイリーンが口をあける番だ。さっきから、フライヤとアイリーンは、順番に、口を開けたり目を丸くしたりして驚きっぱなしだ。フライヤは、微笑んだ。

「お茶会は、続行よ。これからも、ずっと」

「え?」

 

アイリーンは――彼女にしては――あまりにも無防備な顔で停止した。その顔がおかしくて、今度はフライヤが噴き出す番だった。

「ごめんね。あたし、アイリーンには今日話すつもりだったの。……昇進の通達が来て、次の日、ミラ様の待つ秘書室へ行ったわ。そこで、正式に昇進されたの。フライヤ・G・ウィルキンソン少尉だって。……なんだか名前だけは立派だね」

「……」

「アイリーンにすぐ話さなかったのは、あたしが弱気だったから」

フライヤの手が、カタカタと震えだした。アイリーンははっとして、フライヤのフォークを持った右手を、そっと握りしめた。

「弱音ばっかり吐いてしまいそうで、怖かったの。……でも、あたし、決めた」

フライヤは、震えながら笑った。

「決めたの。あたし、がんばる」