――梅小鳩のまえを、イマリの乗ったタクシーが通りすぎていったことに、ルナたちは気づく由もなかったし、イマリもルナたちの存在には気付かなかった。

 イマリはアパートのまえで降り、反射的にブレアの部屋を見た。もう習慣になっている動作だ。ブレアの部屋に明かりがついていれば、呼び出して、一緒にラガーやルシアンに行く。一晩遊んで、昼間は寝ている。ロビンたちに出会う前から、そんな生活が続いていたのだ。

ブレアの部屋の明かりは、やはりついていない。

 (ロビン……)

 イマリは、とぼとぼと自室に帰り、郵便受けの中を確かめると、たしかに通知は入っていた。

 イマリはへとへとに疲れていた。通知を見る気もなく、そのまま絨毯の上に座り込み、いつのまにか寝ていた。夢も見ずに眠り、とうとつに起こされた。カーテンを閉めなかったので、朝日が容赦なく部屋に差し込み、イマリを叩き起こした。

 酒も飲んでいないのに、頭が痛かった。

 緩慢なしぐさでズタボロの服を脱ぎ、シャワーを浴び、湯が傷口にしみたところで、もう一度ケガを認識し、昨夜の記憶がゆっくりとよみがえってくる。イマリは泣きながら部屋着を着て、備え付けの救急箱をさぐり、絆創膏を取り出し、傷に貼った。さいわい、ナイフで切られた肘の傷はあまり深くない。

 イマリは絨毯の上に座り込んで、通知が入っている封筒を破いた。

 ビリビリと破く間にも、涙が出てくる。

 通知には、降船処分が取り消されたことと、侵入してはいけない地域と、店舗の名が書かれていた。ラガーで、警察官に言われたことがそのまま。

 イマリが自主的に降りる分には一向に構わず、降りるつもりなら担当役員に連絡を、とも書かれていた。

 

 イマリは、降りるつもりはなかった。

 ロビンに手ひどく捨てられ、一時は降りてしまおうかと思ったが、このまま降りるのはあまりにみじめだった。

 

 (違うわ……そうね……あたしのやり方が間違っていたのよ)

 もし、義兄が宇宙船に乗っていたら?

イマリは考えた。

よく考えたら、ラガーやルシアン、レトロ・ハウスみたいな荒れた場所に、あの“義兄”が行くだろうか? 清潔感あふれる彼が、あんな場所に行くはずがない。

宇宙船に乗った最初のころ、友人に、軍人がよく集まる場所はどこだと聞いて、教えられたのがラガーやルシアンだった。バーベキューパーティーのときまで恋人だった男は、ルシアンでナンパされた。それから、バカの一つ覚えで通いだしたが、よく考えたら、義兄のような恋人がほしいのに、彼のような人間がくるはずもない場所に入り浸っていた自分が愚かだったのだ。

(完全にあたしの間違いだわ。……研究のしなおしよ)

降船は取り消された。もうラガーに行くこともないし、ブレアともお別れだ。すなわち、時間だけはたっぷりあるのだ。

イマリは、瞬く間に立ち直った。

あと数回、支払いの残っていたワンピースを、イマリは最後の涙とともにごみ箱に捨てた。

ロビンとの思い出も、一緒に捨てるように。

 

「なによ、一週間後って言ったじゃない」

 

ロビンとのデートで着たことのある服を一切合財、ごみ袋にまとめているところで、金切り声が外からした。どこへでもキーンと突き抜けるように耳障りな声は、ブレアの声だ。まちがいない。イマリは、キッチンの窓に張り付いた。ここから、ブレアのアパートが見えるのだ。

ブレアは、玄関を出たところで、三人の役員に出くわしていた。部屋着姿で髪もぼさぼさだったが、財布を持っているところを見ると、コンビニにでも行こうとしたのか。

 

「降りるのは一週間後って言ったじゃない――一週間以内!? どうでもいいわよそんなこと! 昨日の今日で、降りる準備なんてできてるわけないじゃない! ふざけないでよ――ヤダ、なにすんの、勝手に部屋に入らないで! 役所に言いつけてやるから! 言いつけ――」

ブレアが、ブレアの部屋に入っていく三人の役員を追って部屋に戻っていく。イマリは息をのんでその光景を見守った。ブレアの部屋のドアは開けっ放しだ。一分もしないうちに役員たちは外に出てき、ブレアも同時に出てきたが、また泣いていた。

イマリは耳を疑った。役所から来たであろう、黒服の男たちの言葉に。

「電気、水道などは止めました。パソコンも使えません。明日、朝十時にお迎えにあがります。それまで降船の用意ができていらっしゃらない場合、強制的に撤去させていただきますので、ご了承ください」

ブレアの悲鳴のような嘆きが近所中に響き渡る。興味本位のやじ馬たちが、窓から顔をのぞかせていた。イマリも、その一人には違いなかった。

イマリは黙って、窓から離れた。

ブレアを慰めに行く気も、明日、見送る気もなかった。

 

 

 

 

 アズラエルは、次の日の夜、ロビンに連絡を取ってラガーで待ち合わせした。ほんとうは、この満身創痍の姿を知り合い連中に見せたくなかったのだが、どうしてもロビンに聞きたいことがあった。

 話次第では、ケガが治ったらてめえを一発ぶん殴る、くらいの捨て台詞は吐くつもりでいた。

 ラガーの店長は、久しぶりのアズラエルを一目見るなり、「ひでえケガだな」と肩をすくめ、車いすをカウンターにいるロビンのところまで押して行ってくれた。

 アズラエルはロビンの顔を見るなり凄んだ。

「おい」

 「分かってるよ。イマリとブレアのことだろ」

 「いったい何だったんだ。今回のことは。おまえが仕組んでたのか。それとも、ライアンか」

 「まァ……落ち着け。ちゃんと話すから」

 ロビンとアズラエルは、カウンターから、テーブル席へと移動した。

 「一枚噛んでたってことは認めるさ――ライアンは、俺が誘った。おまえに、悪いことはしたと思ってる」

 「てめえ、俺を宇宙船から降ろす気だったのか?」

 「降りても、メフラー商社にきた任務に、お前の名も入ってるなら、アストロスまでは行ける。ルナちゃんが恋しいなら、ルナちゃんが地球に行って戻ってくるまでの間、アストロスで待機してりゃいいじゃねえか」

 あまりに軽いロビンの思考回路に、アズラエルはあきれた。そして、ロビンの目的が分かって、ひとつは腑に落ちた。

 「――ようするに、お前の目的は、俺を宇宙船から降ろすことだったのか」

 「ああ」

 ロビンはあっさり肯定した。

 アズラエルは舌打ちするほかない。ライアンに、「ロビンには気をつけろ」とわざわざ教えられ、ペリドットにも「一時間遅れて来い」と言われた。二人の忠告を深く考えなかったのは自分だ。誰も責められやしない。

 「どうしてだ。だれに頼まれた」

 「依頼主の名は、さすがに言えねえよ。俺の信用に関わる」

 

 ロビンはもっともらしく言ったが、実は、ロビンが最初に予想した、よろしくない結果が的中していたのだった。ロビンは、たしかに「依頼主」に今回の仕事の結果を報告した――そこまでは覚えているのだが、「依頼主」がだれだったか、どうしても思い出せないのだ。

おかげで、返そうと思っていた依頼金を返すこともできない。

 ロビンは三日ぐらいの記憶喪失は覚悟していたのだが、依頼主のことだけをすっかり忘れているというのは、さすがに薄気味悪かった。たしか、依頼金は箱に入っていたはず――と、金が入っていた箱も探してみたのだが、箱は忽然と消えていた。それとも、箱なんてものは最初からなかったのか。

 記憶喪失のことは、アズラエルに話す気はなかった。なんだか、カッコ悪いではないか。

 

 「依頼は、おまえを宇宙船から降ろすことだ――断ってもよかったんだが、俺が引き受けたのは、それを利用して、ついでに、あのバカ女たちを宇宙船から降ろしてやろうと思ったからだ」

 ロビンは、イマリたちを降ろす計画のことは、嘘隠しなく、アズラエルに教えた。ライアンといっしょにイマリたちをたぶらかし、アズラエルの悪口をこれでもかと言ったこと。ロビンたちの誘導に乗り、アホらしい計画を立てたのはブレアで、レコーダーに会話を撮って、加工したのはライアン。それをルシアンの店長から、警察に渡してもらったこと。