百十八話 観覧車



 

 ブレアは、観覧車のなかで、膝を抱えて泣いていた。

 

 宇宙船の西南、K15区の、海のそばにある遊園地――の観覧車だ。

 この遊園地は、宇宙船に乗りたてのころ、ナターシャと二人で来た。リリザがあまりに豪勢だったために、リリザに行った後は、この遊園地がみすぼらしく思えて、一度も来たことがなかった。

 どうしてここに来たのかと問われても、ブレアは答えられない。

 ただ、役員に見つからないように、ふだんは行かない場所に行こうと思ったのだ。

 

 次の日の朝、十時という時間が来る前に、彼女はアパートを飛び出した。

しばらく宇宙船内のホテルを転々としようと思い、ありったけのお金を下ろし、小さなボストンバッグに着替えや洗面用具をつめ、小旅行にでも出かけるような様子で部屋を出た。そして街をうろつき、いつのまにか、海側のほうへ来ていた。

ブレアは荷造りなどしていなかった。部屋の中は、昨日暴れたせいで足の踏み場もなくなっている。

ブレアは、宇宙船を降りたくなかった。

こんなふうに逃げ回っていても、いつか捕まって降ろされるだろうが、すこしでも宇宙船にいる時間を引き延ばしたかった。

 

宇宙船を降りて家に帰ったところで、ナターシャもいない。田舎に戻ったところで、適当な就職口と、退屈な日々が待っているだけだ。

宇宙船で、素敵な彼氏を作って、結婚して――リリザに住みたい。

リリザの遊園地に、毎日行けるようになりたい。

母星にもどったところで、そんな夢を叶えられるはずもない。素敵な彼氏もできるわけがない。ライアンとつきあってからは、今まで付き合った男がすべてゴミのように見えた。

ライアンは、カッコよくて、クールで、素敵だった。ライアンとクラブに行くと、周りの女が羨ましそうにブレアを見た。最高の気分だった。ライアンが、もう一度自分を望んでくれるのなら、さっきの夢は撤回して、傭兵になって、ずっとライアンの傍にいたいとさえブレアは思っていた。

傭兵としての生活が、どんなに過酷でも――。

(でも、もうライアンは、あたしのことなんか……)

ブレアを見捨てたのはライアンだけではない、イマリもだ。

 イマリは、警察署で別れてから一度もブレアに声をかけてくれなかった。昨夜も、どこかへ行っていたし、ブレアが何度もイマリの部屋のインターフォンを押したのに、出てくれなかった。電話にも。

  

 昨夜は、ほんとうに恐ろしい目に遭った。

 ブレアは、宇宙船を降ろされるまえに、どうしてももう一度だけ、ライアンに会いたかった。もしかしたら、いままでの冷たい態度はウソで、ブレアの顔を見たら、すぐさま抱きしめてくれるような気がしていた。もともとライアンは、気分屋のところがあって、不機嫌だとそっけなくなることがある。

 任務が失敗したことを謝って、それから、元鞘に戻れるようにお願いしてみるつもりだった。

 ブレアはラガーに向かったが、ラガーに着く途中で、ルシアンによくいる、貧しい星から来た売春婦たちにつかまった。いつも五人でいる、気味が悪いくらい化粧の濃い女たちだ。その女たちに服を破かれ、汚い浮浪者のたまり場に連れて行かれそうになった。

 昼間、演じた出来事が、現実になった瞬間だった。

 泣いて騒いでも、誰も助けてくれないことにブレアは絶望し、はじめて、役員たちが「この地区は危険だ」と言っていた意味が分かった。にごった目の男たちは、ブレアを助けるというよりか、ブレアの服が破れることを楽しんでさえいるようだった。

 もっとゆっくり剥がせという野次が上がった。

 ブレアが恐怖にひいひいという声しか出せなくなっているところで、意外な女が助けてくれたのだった。

 ブレアを助けてくれたのは、――忘れもしない、いつか、ケヴィンたちとリズンで、ルナとはじめて口をきいたときに、ルナにちょっかいをかけてきた、アフロヘアの女だった。

 どちらかというと、ブレアを浮浪者の集団に売り渡そうとしている女たちと同じ種類に見えるのに、なぜかアフロヘアの女は、ブレアを庇ってくれた。

 「だめ! この子嫌がってるでしょ! 嫌がってるのにだめ!」

 と涙目で庇ってくれ、一緒にいた男に、「ジャック、ジャック、助けてあげて!」と大騒ぎしてくれたのだった。アフロヘアの大さわぎのせいで、店の並びのほうから野次馬が集まりだして、結果的にブレアは救われた。

 「あたしもね、わかるから。嫌なのに、ああいうやつらに、ひどいことされそうになったときがあるの」

 頭の弱そうなアフロヘアは、そういって、ブレアを安心させるように抱きしめてくれたが、酒のにおいが凄すぎて、ブレアは噎せ返ってしまった。警官崩れだというジャックという男は、あいつらは追い払ったから大丈夫だとブレアに言ったが、ブレアは、警官という語句すら、今は聞きたくなかった。アフロヘアにも、ジャックという男にも、礼を言うのもそこそこに、逃げ出した。

 

 ブレアは、昨夜のことを思い出して、身を縮めた。

 (降りたくない)

 あんな目に遭ったというのに、ブレアは宇宙船を降りたくなかった。

 (降りたくないよ……ライアンに、会いたい……)

 ライアンの住処だったはずのK35区のアパートの部屋は、今朝がた行ったら、すでに無人だった。引っ越してしまったのだろう。もう、ライアンには会えないのだとわかって、ブレアは号泣しながらタクシーに乗り込み、この遊園地まで来たのだ。

 

 (ナターシャも、もういない)

ナターシャは宇宙船を降りてから、一度も、電話もメールもくれない。ナターシャの連絡先を教えてほしいと親に電話したが、教えてもらえなかった。

ケヴィンに振られたのを皮切りに、何人に振られたかわからない。最後のとどめがライアンだった。イマリも親友だと思っていたのに、昨日から無視され続けている。

(あたしなんか……)

生きていたって、しかたがないんだわ。

観覧車がゆっくりと動く。ブレアは初めて、外の光景に目をやった。ブレアの乗ったゴンドラはゆらゆらと、一番高いところまでたどり着こうとしていた。

 

(あたしが死んだら、ナターシャは悲しんでくれるだろうか)

ブレアは、安全装置に手をかけた。こういったものは、内側からは開かないようになっているはずなのに、なぜか外れた。

(あたしが死んだって、誰も悲しんでくれる人なんて、いないわ)

親にも持て余されてきたことを、ブレアは知っている。

(あたしは、いらない人間なのよ。だれにも、必要とされてない――)

ブレアは、外の高さに息をのんだ。怖かったが、かなしみのほうが強かった。

(死んでやるんだから)

そのまま、空中に身を躍らせた。