やがて、ブレアはぐったりとベンチに横になった。 だれか。 だれか、助けて。 (ライアン……イマリさん、……ケヴィン……ナターシャ) だれか助けて。 いっそ、きのう家に来た役員でもいい。こんな宇宙船などもう降りてもいいから、はやく、この終わらないループから、助けてほしかった。 「こんにちは」 ブレアは、耳を疑った。声は確かに、間近で聞こえたのだ。ブレアは咄嗟に目を上げたが、向かいの席には誰もいない。 「こんにちは」 声はでも、ゴンドラ内から聞こえる。ブレアがあたりを見回し、やっと声の主を見つけた――そして、絶句した。 ブレアに声をかけたのは、間違いがなければ、この――小さなピンクのウサギだ。 十五センチほどの、ウサギの、ぬいぐるみ。 「こんにちは」 ウサギは再び言った。 やはり夢だ。 ブレアは思った。 ウサギのぬいぐるみが喋るなんて、夢以外にありえない。 ブレアは縋るように、「お願い、助けて! あたし、ここから出られないの!」と叫んだ。 この際、ぬいぐるみでもなんでもいい。 ここから出してくれるなら。 ウサギは、「あなた、さっき外に出たじゃないの」と言った。 「外に……、出ても、」 簡単に安全装置は外れる。外には出られる。だが、観覧車からは降りられない。また“スタート”から始まってしまうのだ。 ウサギは、もっともらしく頷いた。 「ああ、ようするに、あなた観覧車から降りたいのね」 だから、そう言っているじゃないの! ブレアはかんしゃくを起こしたが、ウサギはしずかに告げた。 「このまま乗っていれば降りられるわよ」 観覧車は一定のスピードでゴンドラが円周する遊具だ。ブレアが乗ったゴンドラは、時間が来れば、下までたどり着く。 「今! あたしは、今降りたいのよ!!」 ブレアの絶叫とともに、ウサギの姿がすうっと消えかけたので、ブレアは悲壮に叫んだ。 「待って! 行かないで!!」 一度、すっかり消えたウサギは、また元の姿を現した。 「お願い……早く、降りたいの。あたしもう、こんなところいや!!」 ウサギは微笑んだ。 「そうね。観覧車は退屈だものね」 そうはいったが、ウサギは小さな頭を振った。 「でもね、とりあえず、このゴンドラが下に着いたら、降りられるわよ。観覧車に乗ったことは?」 ある。 ブレアは、リリザでも、ナターシャと初めてこの遊園地に来たときも、観覧車に乗った。 そうだ――乗っていれば、黙っていても、“ゴール”には、たどり着く。 ブレアは、ようやくベンチに座った。呆けたように。 なぜ、そんなことを忘れていたのだろう。 観覧車は、終わりがない乗り物ではない。 ブレアが百回も、“途中で飛び降りなければ”、とっくに下についていたのだ。 「そうね――観覧車が嫌なら――お化け屋敷にはライアンがいるわよ」 ライアンの名に、ブレアは即座に顔を上げた。ウサギは笑った。 「ライアンと旅する、戦慄のアトラクション! スリルは満点よ、恐怖には事欠かないわ。あなたは二度ほど銃弾を浴びて、腐った匂いのする病院で治療を受けるだろうし、その病院での治療が原因で破傷風にかかって生死の境をさまようわね。末はL19の軍隊につかまって、拷問死。――最高に過酷だと思わない。さすがお化け屋敷!」 ブレアは絶句した。このウサギは、いったい、なんのことを言っているのだろう。ただのお化け屋敷のことではないことは、ブレアにもわかった。 「あなたが受けるのはただの拷問じゃない――ドーソンの任務に参加した傭兵の仲間だから――骨も残らない。お父さんもお母さんも、ナターシャも助けてくれやしないわ。死ぬまで、長い長い、肉体の苦しみを味わうの。もう死んでもいいというような――そうね。“観覧車から飛び降りることも許されない。”終わりの見えない苦痛に――」 「やめて!!」 ブレアは聞きたくなくて、耳を覆った。 「ライアンは、あなたよりメリーを選ぶわ。あなたはライアンに売られてメリーの身代わりに拷問を受けるの」 そんなのは嫌だ。 「ライアンは、あなたが必死についてくるのを見て、やがて憐憫めいた愛情を抱くわ。メリーの次に大切だとしても、あなたはほんとうに彼の恋人になれる。最期は残酷だけれども」 泣き続けるブレアだったが、ウサギはマイペースに続けた。 「じゃあ、ジェットコースターは? メリーゴーランドは? 残念。チケットが足りません。あなた、コーヒーカップに乗るのに、ぜんぶのチケットを使ってしまったのだもの。ましてや、お姫様ランドなんて」 ウサギは、遠くに見える、お姫様が住んでいるという居城を見つめた。ブレアもそれにつられて、そっちを見つめた。 あんなお城に住む、お姫様になってみたい。 ブレアが思ったところで、ウサギが小さく笑った。 「無理よ。あなたが、あんな“牢獄のようなところ”で暮らすなんて、きっと耐えられない。一番楽な観覧車でさえ、とちゅうで飛び降りようとするんだもの」 「……!」 ブレアはバカにされたような気がして怒りに震えた。 「なによ! 何よ、こんなところ――あーっ!!」 再びブレアが暴れたとたんに、安全装置が外れて扉が開いた。ブレアは背中から、まっさかさまに落ちて行った。 ガタン! ゴンドラが大きく揺れた音に、ブレアは目覚めた。 また最初からだ――ブレアは泣きべそをかいた。さっきのぬいぐるみのウサギはいない。 ブレアはひどく後悔した。 怒りに任せて、あのウサギに怒鳴ってしまったことを。 また、ひとりぼっちになってしまった。 ブレアは、錆びた鉄の床を見つめる。 見捨てられてしまった、ついに、ぬいぐるみにまで。 「ねえあなた」 声がしたので、ブレアはあわてて顔を上げた。向かいのベンチに、さっきの、ぬいぐるみウサギが座っている。 「退屈しのぎに、絵でも描かない」 ピンクの小さなウサギは、自分の身体の倍もあるスケッチブックを持っていた。彼女は手元のクレヨンで、なにか描いている。気づくと、ブレアの手元にも、クレヨンとスケッチブックがあった。 クレヨンなんて見たのは、小学生の時以来だ。 「これってどう。あたしが考案した、新しいジェットコースターなんだけど」 ウサギが自分の描いた絵を見せてきた。それを見てブレアは噴き出しそうになったが、ぐっとこらえた。もう、誰の機嫌も損ねたくなかったのだ。 ブレアは、メリーのことを、「ブタ」と言ったことを思い出して、また後悔した。 ちゃんと、謝ればよかった。 イマリが、中央役所についてくれたときも、お礼を言えばよかった。 ……もっと、ケヴィンを信じればよかった。 バーベキューパーティーでしたことを、ルナやナターシャたちに謝るべきだった。あんなことをしなきゃよかった。 ナターシャが宇宙船を降りるとき、見送りに行けばよかった。 もう、会えないのなら。 「ねえ、どう」 ウサギの描いたジェットコースターは、なぜだか八つも頭がある金色の龍で、すべての頭にウサギが乗っている。微妙なアイデアだが、絵はうまかった。 「……変だけど、絵は上手い」 ブレアはまたひどいことを言ってしまった気がしてあわてて言い直そうとしたが、ウサギは機嫌を損ねてはいないようだった。 「あなたも、なにか描いてよ」 どうせ、時間はたくさんあるんだし、とウサギはまたスケッチブックに向かった。 「……」 ブレアは恐る恐る、クレヨンを取った。 |