(ありがとう――ルナ、レイチェル、シナモン)

 礼を言われるようなことではなかった。

 この宇宙船旅行が終わったあと、ジルベールはカンファドール音楽院に、シナモンはMM・ME社に、というのは最初から決まっていた“シナリオ”だった。

 レイチェルの親の会社は、エドワードがどんなにがんばったところで一度は終末を迎えるだろう。だが、ララの渡したチャンスによって、エドワードは自分で会社を立ち上げる。

 それは彼らが地球に到達しようが、到達しまいが、起こり得ることだった。

 彼らは、“地球に到達できる幸運”という一番大きな幸運のチケットを、惜しげもなく、月を眺める子ウサギに差し出した。

 彼らは真砂名の神と月の女神、そしてネズミを眷属とする夜の神の守護によって、予定以上の成功を得るだろう。

 

 アンジェリカはオルゴールを丁寧に、枕もとの棚に置き、ねじを巻いた。ポロン、ポロン、と滴がこぼれるような音に、アンジェリカは胸が熱くなった。

 (早く元気にならなきゃ――なりたいよ)

 アンジェリカの不調は、医者に言わせれば軽い鬱だった。だから、しばらくは仕事のことは忘れて、療養しなさいとのことだ。カザマやメリッサも、アンジェリカにそう言った。いつもアンジェリカに厳しいカザマが、ずいぶんと優しい言葉をかけてくれたことは、(いよいよ、あたしはヤバいんだな)とアンジェリカに実感させてしまい、ますます落ち込み気味になったが――。

 (ZOOカードが動かないことも悩みのひとつだけど――姉さんのことが、堪えてるのかもしれない)

 サルーディーバに拒絶されたことが。彼女が、自分のこともだまして、何かを行っていたことが。

 (あたしは、姉さんにとって、信用にたる人間じゃなかったのかな)

 

 

 「ペリドット」

 店内にもどったアントニオは、そこにいた、意外な人物に目を丸くした。

 「よう。……なんだ、店はやってねえのか」

 鍵は閉めておいたはずだが。アントニオはそう思ってから、この男には、傭兵や泥棒とは別の意味で、鍵など役に立たないことを思い出した。

 ペリドットが、リズンに来たことなど、開店以来片手で余るほどしかない。そのうえ彼は、めずらしくポロシャツとスラックスの格好だった。トラのくせに、ライオンみたいな伸び放題のたてがみを、無造作に一本結びにしてある。今日のペリドットは、職業不明の野放図なおっさんだった。

 

 「今日は定休日だよ」

 「ンじゃコーヒーひとつ」

 マイペースにかけて人後に落ちない彼は、カウンターに座りもせず注文した。

 「不肖の弟子は元気か」

 「元気だったら、君のとこへ行ってるはずだと思わない」

 「話がある。コーヒーは三人分だ。アンジェリカは二階か」

 ペリドットがカウンターに座らなかった訳が分かった。アントニオが止める間もなく、ペリドットは勝手に二階に通じる部屋のドアを開け、階段を上がっていく。

 「ったく、アイツは」

 アントニオも舌打ちはしたが、仕方なくコーヒー二杯と、ノンカフェインの紅茶を入れて、二階へ上がった。

 二階は、アントニオの住宅になっている。勝手知ったる様子でペリドットは廊下を歩き、今はアンジェリカの私室になっている部屋の前までたどり着いた。申し訳程度にノックし、アンジェリカの返事が聞こえる前に、「入るぞ」と言ってドアを開けた。

 

 「ペ、ペリドット、様……!」

 ベッドに座っていたアンジェリカが、あまりにも意外な訪問者に驚いて、ベッドから転げ落ちかけた。ペリドットは黙って不肖の弟子を支えると、ベッドに戻してやった。

 「おまえ、ずっとねたきりなのか」

 「……」

 アンジェリカが悔しげに唇をかみ、それから絶望した顔つきになったので、ペリドットは嘆息した。だが、その嘆息は、アンジェリカには重く響いたようだ。

 「す、すみません――私は、」

 「俺は、おまえを責めに来たわけじゃねえ。――話をしに来た」

 ペリドットの言葉と同時に、アントニオが入室した。小さなテーブルを引き寄せて、コーヒーと紅茶を置く。ペリドットは待ってましたと言わんばかりにコーヒーを喫し、前置きもなく話を始めた。

 

 「あれから、俺もかなり調べてみたんだが、結局のところ、まだ確信はつかめない」

 具合はどうだという挨拶もなく、前置きもないために、アンジェリカは、ペリドットが何のことを言っているのか、分からなかった。きょとんとした顔のアンジェリカに、ペリドットは、「おまえがZOOカードを使えなくなった理由だよ」と、やっと説明した。

 アンジェリカはふたたび驚いた。まさか、ペリドットが、調べてくれていたとは思わなかったのだ。

 アンジェリカが礼を言う前に、ペリドットは言った。

 「ZOOカードは、おまえが作ったモンだ。L03の、どの文献にも前例がなく、新しい。だから、正直、おまえが分からんモンを、俺が分かるわけはないんだ」

 ペリドットの言葉は真実だった。だからこそ、アンジェリカは悔しげにうつむいた。

 連日、神社に赴いても、真砂名の神からのこたえはなく、ZOOカードも動かないままだ。

 自分の精神状態も、ZOOカードが使えなくなったことに関係があるのだろうかと考えてもみたが、まだはっきりとはわからない。

 ZOOカードのことは、製作者のアンジェリカが分からなければ、誰も分からない。

 せめてマリアンヌがいれば、相談できたかもしれないが、彼女は故人だ。

 

 「そういうわけで、おまえがカードをつかえなくなった理由を考えても、埒が明かないからな。俺は、別の角度から、考えてみることにした。俺は、まがりなりにも、“真実をもたらすトラ”だからな」

 アンジェリカははっとした。

「考えたところでまだ――推測の域を出ないが――まァ、今日は話に来た」

 アンジェリカは、真剣な顔で、あたたかい紅茶を手に取った。夏だというのに、手はずいぶん冷えていた。あたたかい紅茶のカップに、ほっとする。

 「ひとつは、ルナに、ZOOカードが渡った件からだ」

 

 「ルナに!?」

 アンジェリカは、紅茶を落とすところだった。

 「ルナ!? ルナが、ZOOの支配者になったんですか!?」