アズラエルが帰ってきて、ダイニングテーブルの上に散らばっている洋菓子を見つめた。 「ルゥ。ふかくは聞かねえが、これはなんだ」 飛び散ったフィナンシェである。ルナは存在を忘れていた。あわてて片付けようとしたが、アズラエルは飛び散っていない大きなところを口に入れ、散らばったカスは片付けてくれた。ルナはしずしずとコーヒーポットからコーヒーをマグに注ぎ、アズラエルに差し出した。 アズラエルはそのまま椅子に座ったので、ルナはサラダをつくる手を止めて、アズラエルの膝に飛び乗った。 「おかえり、アズ」 「サラダ作ってんじゃねえのか」 「ちょっと、考えごとをします」 ルナは、アズラエルの膝上という定位置に乗っかったまま、むずかしい顔で言ったが、電話のせいで、すぐに膝から降りねばならなくなった。風船よりパンパンの、恋人の頬を指でつつきながら、アズラエルはルナの代わりに電話に出た。 「どうした、ピエト」 ルナは、そういえば、今日はピエトの帰りが遅いなあと、やっと気づいた。 このあいだから、ボケウサギレベルが急上昇中である。 「ン? ――ああ、いいよ――どっちがいいんだ。――ああ、どっちもつくれる。――わかった。じゃあ、気を付けて帰れよ」 「ピエト?」 「ああ。ピエトの友達だっていう、ガキがいたろ。ネイシャってヤツ。ピエトがアイツを連れてくるって」 ルナはうなずいた。 「明日、休みだし、今日泊まっていいかっていうんだ」 ルナは「いいよ」といい、それから思い出したように、「ごはん、何つくろう」と言った。 サラダはつくったが、メインディッシュはまだ決めていない。ルナの頭の中は、ZOOカードのことでいっぱいだった。 「ピエトが、ラークのシチューか、バリバリ鳥のシチューがいいとさ。どっちも、肉は冷凍してあるから、いつでもつかえる――どうした?」 「アズは」 ルナは言おうとしてやめた。アズラエルも、イマリに同情などするなというに決まっていた。イマリの運命の相手が、たとえイマリを“殺害”するかもしれない相手であろうが、同情の余地はないと言いそうだった。 「……アズは、ほかになにが食べたいですか」 ルナは考えていることとはまったく違うことを言ったが、アズラエルにはお見通しだった。 「ルゥ」 アズラエルはふたたびルナを抱き上げると、ぽすん、とひざ上に落とした。 「なにを考えてる。言え」 アズラエルは、ルナが言いたいことを我慢しているのを、すぐ見抜いてしまうのだ。このままでは、ルナが話すまで、離してくれなさそうだったので、ルナは仕方なく、口を開いた。 ルナの予想に反して、アズラエルはあきれたりしなかった。イマリに同情するなとは言わなかった。ルナが驚くほど真面目に話を聞いてくれ、「それで、月ウサギはなんて言ったんだ」と最後にルナに質問した。 「月を眺める子ウサギだよ」 「どっちでもいい――何も言わなかったのか」 「うん――何も、言わなかった」 ルナはしょぼくれた顔をした。 「あのピンクのウサギはおまえだって言ったよな」 「うん。あたし」 「だとしたら、あいつも、今のお前と同じように悩んでるんだろうな」 ルナは、緩慢に顔を上げた。 月を眺める子ウサギが、悩んでいる? あの、なんでも知っていて、すべてを解決してくれそうな、うさこが? 「どっちがいいかなんて、誰にも分からねえ。本人にすらもな。俺だって、運命の分かれ道なんてのは、今まで何度となくあったよ。要は、自分が後悔するか、しねえかなんじゃねえか」 「……」 「それに、おまえの話で言うなら、俺がツキヨばあちゃんに預けられたときだって、運命の分かれ道だったんじゃねえかと思う。あのときの気持ちはまるで覚えちゃいねえが、俺は、ばあちゃんと暮らすことじゃなくて、家族と暮らすことを望んだ。それが不幸だとか、幸福だとか、考えちゃいねえよ。ただ俺は、家族のもとにもどりたかった」 アズラエルは、かつてひとりだけ、ツキヨおばあちゃんのところに残された。ルナは思い出した。アズラエルは確かに、ツキヨおばあちゃんのことも大好きだった。アズラエルの家族も、アズラエルがツキヨおばあちゃんと暮らすことを望んだ。 でも――アズラエルの望んだ道は。 「あのままばあちゃんのところにいたら、俺は傭兵にはならずに、L77でおまえと会っていたかもしれねえ。でも、傭兵になる道を選んでも、こうしておまえには出会った」 「――!」 「おまえがいう“運命の相手”ってのは、どんな道を選んでも、いずれ会うことにはなるんじゃねえのか」 ルナは今度こそ、アズラエルを見上げた。 「イマリが、そいつに殺されるかどうかは――イマリとそいつの問題だ。そうだろ?」 そういって、アズラエルはルナを抱きしめた。ルナは、アズラエルの言いたいことがよく分かった。 ルナとアズラエルも、今確かに、こうして、幸せに暮らしている。 自分たちも、いつも悲しい結末を望んでいたわけではなくて、幸せになろうとしていたのだ。イマリと“彼”も、そうでないはずはない。 「うん――」 ルナはアズラエルをぎゅうっと抱きしめ返したあと、元気を取り戻したように、アズラエルの膝から降りた。 「アズ! シチューをよろしくお願いします! あたし、サラダをつくったら、トマトのオーブン焼きをつくるから! ひき肉とチーズたっぷり! アズ、好きでしょ? ちょっとからめにしてあげるね!」 「――もうすこし、もうすこし、余韻をだな……」 アズラエルは、もうすこし抱きしめていたかったので、手をワキワキさせたが、すっかり元気を取り戻した恋人は、今ははるかかなた、キッチンの奥にいた。 「トマトのオーブン焼きと、ガーリックトーストも焼いちゃおうかな! ごはんはもうすぐ炊けますよ!」 |