百二十一話 盲目のイルカ U



 

 「やあ、遅れてごめん」

 ミシェルの部屋のリビングで、ちょうど皆にコーヒーが行きわたったころ、インターフォンが鳴ったので、アントニオが代わりに出た。アントニオが玄関から連れてきたのは、ルナも見覚えのある男だった。

 

 「バジさん!」

 彼の名前を言ったのは、ピエトだった。彼ははじめて会ったとき、オレンジ色のダウンパーカーを着ていたが、今はオレンジ色のTシャツだった。オレンジが好きなのだろうか。

 「このなかで初めましては、君だけかな」

 バジと呼ばれた四十代のにこやかな男は、流暢な共通語で、ミシェルに手を差し出した。

 「初めまして。バジです。L47出身のケトゥイン族だ」

 「ケトゥイン……」

 ミシェルも、彼がなぜここに呼ばれたか分かったようだった。ルナは、コーヒーをもうひとりぶんカップに注いで、持ってきた。

 彼は「ありがとう」とルナに礼を言って、カップを受け取った。

 「悪気が残っていたのは、隣の部屋だったから行ってみたんだが、ペリドット様はこっちにいるって聞いて」

 部屋の中はすごい有様だったね、と彼はおおげさに肩をすくめた。

 「やはり、ケトゥインの呪いか」

 ペリドットが聞くと、バジははっきりとうなずいた。

 「間違いない。かなり、強力な呪術だ」

 

 「ネイシャが、どうかしたの」

 ピエトは賢い子だ。ペリドットの「呪いの元凶を探せ」という言葉も、ベッタラが、ネイシャの帰って行った裏口を見て、「もう帰った」というのも聞いていた。

 さすがに、この大事態の元凶がネイシャだと、気づきかけていた。

 

 「ピエト、落ち着いて聞くんだ」

 ペリドットが、めずらしく優しげな声を出した。

 「ネイシャ、という少女は、ケトゥインの呪いに侵されている」

 「ええっ!?」

 彼らが話をしている最中にも、バジはベッタラといっしょに、持ってきた草花を金属のたらいに入れて火をつけていた。

 「暑い中わるいけど、窓を開けて、換気扇を、」

 バジが言った。

 「イジムか」

 「いじむ?」

 「魔除けだ」

 ペリドットの言葉をルナがひろった。枯草が燃えているのに、草が焼けるにおいはせず、ペパーミントのような清涼感ある芳香が部屋じゅうに漂った。

 

 「なんだ、この匂い」

 アズラエルたちが、隣室からやってきた。やっと目が覚めたらしい――ピエトとミシェルの怯えた顔を見て、四人はさすがに、セルゲイが言ったことを信じざるを得なかった。まったく覚えていないのだが、互いに「殺してやる」と罵り合って、殴り合い――ペリドットたちが来てくれなければ、確実に死人が出ていた。ほぼ全壊の部屋と、破れた服や、あちこちすり傷だらけの身体が、確たる証拠だった。

 四人は、すっかりつかれた顔で、ルナたちに謝った。

 「ごめん――マジ、怖い思いさせた」

 一番落ち込んだ顔をしていたのはカレンだ。ルナがぎゅっとカレンを抱きしめると、ようやくカレンの顔に、色がもどった。

 「……俺たちに、いったい何が起こったんだ」

 ピエトに怯えた顔をされたアズラエルとグレンも、さすがにショックだった。抱き上げようと手を伸ばしたら、ピエトはルナの後ろにさっとかくれた。

 アズラエルは硬直し、グレンがしゃがみこんで、ピエトと視線を合わせた。怯えさせないように離れた位置から。重ねて、ピエトに謝る。

 「マジで悪かった――俺たちは、そんなに怖かったのか」

 ピエトは涙目で、うなずいた。グレンは嘆息した。アズラエルも膝をつき、顔をぬぐってから、「すまん、ピエト」と詫びた。ピエトはうなずいたが、ルナの後ろから出てはこなかった。

クラウドなどドン底だった。ミシェルがこっちを見てくれないのだ。

 

 「頭がすっきりするだろ」

 「こんないい匂い、はじめて嗅いだ」

 カレンが、たらいに近寄ってくんくんと嗅ぐ。そうして、草を燃やしている男の顔に気付いた。

「あれ? あんた、K33区の駐車場であった――」

 「バジだ。覚えていてくれてうれしいよ。カレンだよね?」」

 

 三人の中で、アズラエルたちに変わらない態度を示してくれたのは、ルナだけだった。

めずらしく冷静なウサギだ。

ルナは四人の手をかわるがわる握って、

「たいへんなことがおこったんだよ」

と、慰めのような、事実であるだけの言葉のような、を口にした。四人は、返す言葉もなく、ルナの手を握り返した。

人数が増えたので、ルナはまた立ってコーヒーを取りに行ったが、

 「セルゲイの分で終わりだよ」

 「この四人の分は、いらない。――まだ片づけ終わってないしね」

 四人は神妙に、閻魔大王のペナルティーを受けた。ミシェルとピエトの笑顔を取り戻すためなら、自力で掃除くらい、コーヒーがないことくらい、屁でもない。

 

 「昨夜、ZOOカードを開けたら、真っ先に“真実をもたらすトラ”がやってきて、俺に事の次第を話して聞かせた」

 相変わらず前置きのないペリドットの台詞だ。

 「俺に、真っ黒なもやに包まれたカードを見せて、ルナが困っているから、多少、調べてみてくれ、とだな」

 「もや?」

 クラウドが口を挟んだが、ペリドットは無視して話をつづけた。

 「トラは、呪いだと言った。まあ俺もそうだと思ったので、K33区にいる連中を片っ端からあつめて、『この黒いもやが見えるか?』と聞いた。見えたのは、ケトゥイン出身の奴らと、エラドラシス出身のマミカリシドラスラオネザだけ」

 ルナは舌をかみそうな名前だと思ったが、冗談を言える空気はまだ戻っていなかったので、黙っていた。じっさいペリドットも舌をかみそうなのか、次からは略した。

 「マミカリシ……はエラドラシスの呪術師だから、“もや”が見えるだけであって、“もや”がエラドラシスの呪術であるかどうかは分からないと言った。ケトゥイン出身の奴らは全員見えた。だとすれば、ケトゥインの呪術である可能性が高い」

 

 「ちょっと待ってくれ。その、“もや”のカードってのは、」

 クラウドが、詳しく知りたくて食い下がる。

 「ネイシャちゃんです」

 ルナがはっきりと言った。昨夜、ルナから話を聞いていたミシェル以外は、みな驚きを露わにした。

「じゃァ、あいつが言っていた、母親がケトゥインの呪いにかかってるっていうのは、ほんとだったのか」

 アズラエルの言葉に、ベッタラとバジは顔を見合わせた。

 「自覚はあるんだな。呪いにかけられてるって」

 「“男”にまつわる呪いだ。あの親子は、“男”に苦しめられ、やがて滅ぼされるという呪いがかけられている。“真実をもたらすトラ”にわかることは、今のところそれだけだ」

 ペリドットのつけたしに、ミシェルは息をのんだ。

 「じゃあ、あの子の腕のあざは――もしかしたら、ほんとに、」

 ミシェルのつぶやきを拾ったペリドットが、今度は問い返した。

 「腕のあざ?」

 ミシェルは、おずおずと、ネイシャは暴力を受けているかもしれないという可能性を、話した。彼女の腕には、いくつも青あざがあった。

 それは、クラウドたちも確認していたことだったので、誰も否定はしなかった。

 

 「まず、間違いはないだろう」

 ペリドットは可能性を確定させた。

 「あの“もや”はな、人の悪意をむき出しにさせる作用を持っている」

 「え?」

 「つまり、ネイシャとその母親に相対したものは、身体の奥底から、暴力性と悪意を引きずり出されるんだ。それが親子に向いた場合は、親子が害される。親子がその場から姿を消した場合や、いない場合、“もや”に当てられた周囲の人間は、争いをはじめる――おまえらが、さっき直に経験しただろう?」

 アズラエルたちは、自分たちの争いを、全く覚えていなかった。ただ、腹の底から、訳も分からない憎しみが沸き起こってきて、どうしようもなかったのを覚えている。誰でもいいから、手あたり次第、傷つけたかった。

 悪意の真っただ中に放り投げられたような感覚だった。

 カレンは、ぞっとして、自分を抱きしめた。理性もなにもない、自分が何をしたか、記憶がないのだ。