「早かったじゃないか、ネイシャ。帰るのは夕方になるって言ってなかった」

 「うん――ちょっと早く帰ってきちゃった」

 言った途端にネイシャの腹が鳴った。

 「あ、あたし、ちょっと走ってくる……」

 踵をかえしたネイシャを、セシルは肩をつかんで留めた。

 「朝メシ食ってないの」

 「――あ、ちがうの――朝メシは、――作ってもらったんだよ。マジでうまそうなやつ――昨日の夕メシもうまくって、――久しぶりにラークのシチューを食った!」

 「なにが、あったんだい」

 

 セシルは、娘の、無理やり作った笑顔に、ごまかされなかった。だいたい、見当がついていた。だが、娘の身体や腕に、あたらしい傷はなさそうだ。乱暴されたわけではないことだけはわかり、ほっと胸をなでおろした。

 ピエトの親代わりだというふたりは、話に聞く分では悪い人間ではなかった。悪い人間ではない――そんな言葉は、今まで何の役にも立たなかった。悪くない人間を、“呪い”のせいで悪人に変えてしまうのが、セシルたちの受けた呪いだった。

 ネイシャがピエトの家に遊びにいきたいというのを、セシルは反対した。ピエトがこちらに遊びに来る分は、いつだって、毎日だってかまわないから、ネイシャはあちらの家に行くなと何度も言い聞かせていた。ピエトの父親代わりの男だけではない、友人が何人か一緒に暮らしている家だ。たとえその人たちがどんなに良心的な人間で、好意的であっても、“呪い”があっという間に、彼らを恐ろしい人間に変えてしまう。

 ――乱暴されてはいないが、たしかになにか、あったのだろう。

 夕方に帰ると言っていた娘が、朝早く帰ってきた。

 追い出されたのか、――まさか、もうピエトと遊ぶなと言われたか。

 かつてネイシャは、友人の家に泊まりに行き、彼女の父親に殴られて、這う這うの体で逃げ帰ってきたことがあった。

 それ以来、ネイシャは、友人の家には遊びに行かなくなった。

 だが、今度ばかりは大丈夫だと、ピエトのうちに遊びに行きたいと言って、ひかなかった。

 「ピエトの父ちゃんと、母ちゃんは――大丈夫だって。ピエトが言ってた」

 ネイシャはそう言っていたが、やはり結果はこのとおりだ。

セシルは、正直昨夜も気が気ではなかった。何度、ピエトのうちに電話して、娘の様子を聞こうと思ったが、電話もこないし、泣いた娘が帰ってくることもない。もし楽しく過ごしているのなら、邪魔をしたくはなかった。ピエトの父親も、その友人も、夜の仕事が入れば不在も多いと聞いた。今日は、男たちはいなくて、女ばかりなのだろうか。娘は無事だと自分に言い聞かせて、眠れぬ夜をあかした。

 

 奇跡の起こる、地球行き宇宙船――チケットが当たったときは、最後の希望だとおもって乗り込んだ。だが、“呪い”に苦しめられる生活は、乗っても何も変わらなかった。

 (なんとしても、娘と二人で地球に行くか、金をためて、ふたりひっそりと生活ができるようにしたい)

 “呪い”は解けなくても、逃げ続けるままでも、きっと生きていけるはずだ。

 

 「……目玉焼きでも作ろうか」

 十二歳にしては逞しい娘の腕をさすり、セシルは立った。

 「……母ちゃん!」

 ネイシャは、母親の腕にすがった。

 「ピエトの母ちゃんも――父ちゃんも、一緒に暮らしてる人も、ほんとにいい人だった! ほんとだよ! あたし、殴られたりなんかしなかったよ。嫌味も言われなかった。あた――あたしが、悪いんだ。ピエトの父ちゃんに、呪いのことを、言っちまったから」

 「ええ!?」

 セシルは、蒼白になって娘の身体を揺さぶり、

「あんた! 何を言ったの!」

「ピエトの父ちゃんに、母ちゃんがケトゥインの呪いをかけられたって言っちまって、」

「それだけ!?」

「そ――それだけ」

 

――娘は、男たちから受ける数々の暴力や悪意が、“呪い”のせいだということは知っているが、それがどういう呪いで、どんな経緯でかけられたかは、まったく知らないことを思い出して、セシルはがくりと膝をついた。安心のためにだ。

“呪い”の正体を知っているのは自分だけ。

内容を話せば、娘の命を持っていくと呪術師は言った。だから、ネイシャは、セシルがケトゥインの呪いにかけられたことは知っていて、そのためにこんな逃亡生活を送っていることは知っているが、母親が呪いをかけられた経緯は知らないはずだった。

セシルのせいで、祖父率いる“レッド・アンバー”は全滅した。悔いても、悔いたりないできごとだった。

夫を“殺され”、家族同然だったレッド・アンバーのメンバーと祖父を殺され、自分と愛娘に呪いをかけられた。

セシルは、夫にもなれなかった男を愛したことを、後悔はしていない。

ネイシャを生んだことも。

後悔は、レッド・アンバーのメンバーと祖父を、巻き込んでしまったことだけだ。

 

「あたしが、呪いのことを言っちまったせいだと思う。朝メシまえに、ピエトの父ちゃんたちが、大ゲンカをはじめちまったんだ……それで、ピエトの部屋にいたんだけど、ケンカは激しくなるばっかりで、……ピエトが、危ないからいったん帰れって、裏口から出してくれたの」

セシルは、娘がこんな早朝に帰ってきたわけが分かった。

「……あたしの、せいだ」

「あんたのせいじゃない。母ちゃんのせいだよ……ほら、母ちゃんがなにか作ったげるから、食べよう」

「……うん」

歯を食いしばって泣くのを我慢している娘が不憫で、セシルは、引っ越しのことを話すのを忘れた。

娘をテーブルに着かせ、フライパンにハムを敷いて、卵をふたつ割り落とす。冷蔵庫からレタスを取り出して、オーブントースターにパンを入れた。

「ああ――そうだ、ネイシャ」

セシルは、焼けたパンを皿にのせたところで思い出した。

「引っ越すからね。今日じゅうに」

「――え。もしかして、あの男、やっぱりストーカーになった」

親子は、こういった出来事に慣れっこだった。

「隣の奥さんが、変な男が訪ねてきて、あんたのことを聞いていったって、教えてくれたんだよ――ほんとに助かった」

 

セシルは、この宇宙船でもらう報酬も切り詰めて貯めていたが、この先なにが起こるかもわからない身としては、すこしでも多く稼いでおく必要があった。

女中心の傭兵グループをさがして、つなぎを作っておこうとバーに足を運んだのがまずかった。女性バーテンダーの店に入ったはよかったが、案の定、客にいた、セシルの美貌に目を付けた男が食いついてきた。セシルはすぐに、店を出た。その日は何とか巻いたが、長年の経験だろうか、あの男は危険だと直感が告げた。やはり、セシルの住処を探したようだ。

この宇宙船に乗ってからも、スーパーで目をつけられでもしたのだろうか。見覚えのないおかしな男に追い掛け回されたり、宇宙船の役員に、ストーカーになられたこともあった。

担当役員が女性であったことが、唯一の救いだ。彼女は、セシルたちの“呪い”に理解を示してくれ、なにくれとセシルたちの力になってくれる。

 

「今度は、どこ行くの」

「役員の人がね――K19区はどうだって。ピエトが住んでたところだよ。寂れた区画だけど、子どもばっかりだし、人は少ないからかえってそっちのほうがいいんじゃないかって――」

言いかけたところで、不穏な足音がした。このアパートに住む住人に、あんなに荒っぽい足音であるく人間はいない。