セシルとネイシャが落ち着くまでには、まだ多少の時間がかかった。担当役員は、ミシェルの部屋に最初から備え付けられている救急箱を借りて、手早くセシルとネイシャのけがの手当てをした。

「女の子の顔に傷をつけるなんて、最低だわ」

「こんなことでヘコんでちゃ、傭兵になれねえよ」

憤慨する担当役員だったが、ネイシャは気丈だった。

 ミシェルはコーヒーを淹れて、セシルと担当役員にはミルクと砂糖をつけたブラックコーヒーを、ネイシャには、カフェオレにして出した。ピエトも同じ、砂糖たっぷりの甘いカフェオレを、ネイシャの横で啜る。

大人たちは、ばたばたと、出入りが激しかった。

「あら、このコーヒー美味しいわね」

担当役員の言葉に、セシルはやっと黒い水面を見つめているだけでなくて、口をつけた。

「ほんとうだ――美味しいね」

「リズンでつかってるコーヒー豆の焙煎店を教えてもらったの。ちょっと贅沢だけど、いつもそこのなんだ」

あたし、コーヒーにはちょっとうるさくって、とミシェルは言って、ルナと一緒に向かいのソファに座った。

 

「それでね、セシルさん。このあいだ話してた引っ越しのことなんだけど」

担当役員は、おだやかな笑みを絶やさずに言った。

「わたし、K19区と言ったけれども、このK27区でもいいんじゃないかしらと思って。ルナさんたちが以前住んでいたアパート、まだ空いているそうなのよ」

「……」

セシルの表情は、動かなかった。彼女は、ひどく疲れているようだった。

「今日からでも入れるらしいわ。K19区だと、ネイシャちゃんの学校も遠くなるしね――わたしは、ここをお勧めするけど」

「あたしたちはどこでも。――今まで住んでたアパートは、あいつに嗅ぎつけられちまったから」

力のない声でセシルは言った。

「今日逃げた男も、早晩捕まるわ。だいじょうぶよ」

L25で婦人警官をしていたという彼女は、力のある声で、セシルを励ました。

 

「セシル、セシル!」

バジがいきなりソファに座って、ずい、とセシルの目の前に枯草を差し出した。びっくりして身を引いたセシルは、枯草の匂いをかいだとたんに、名を当てた。

「――これ、イジム?」

「良く知ってるな。そうだよ。ケトゥインでよくまじないにつかう、あらゆる邪気を払う薬草だ――君たちの部屋に、これを毎日焚き染めておくといい。できれば服にも」

悪い匂いではない、ペパーミントとバジルが混ざったような香りだ。

セシルは、やはり戸惑い顔で受け取った。

「これが、船内にあるのをかき集めても一ヶ月分しかない。知ってるとは思うが、イジムをまじないにつかえるようにするには、刈ってから一年干して、熟成させなきゃいけない。収穫期は冬の待っただなかだ。そこから一年――つまり、俺たちは、このイジムが尽きるまでの一ヶ月が勝負だと考えてる」

「もう――やめておくれ!」

セシルは、イジムをバジの手に突き返した。

「あたしたちのために、そんなことする必要がないんだ! こんな、初めて会った他人のために――」

セシルは勢いよく立った。ネイシャの腕をつかんで。

「行くよネイシャ!」

「か、母ちゃん……!」

ネイシャは泣きそうな目でピエトとバジを見たが、セシルは強く、娘の腕を引っ張った。

「あんたは、ピエトが死んでもいいの!?」

ネイシャがびくりと身体を揺らした。――強く。

そして、あきらめたように肩を落とし、セシルに腕を引かれるままに、ついていった。

「待って! 待ってよ、ネイシャの母ちゃん!」

「セシルさん、待って……!」

ピエトと役員が追ったが、それよりも先に、ベッタラが飛び出して行った。

 

 

「待って――お待ちください! セーシル!」

部屋から出てすぐのところで、セシルはベッタラに肩をつかまれ、止められた。ルナの部屋に出入りしている業者が、マイクロミニのドレスを着た、たくましいオカマを見て目を丸くしているが、ベッタラは一向に構わなかった。

「話を最後まで聞くのです。聞かねばなりません」

「あんたは、あたしにかけられた呪いの怖さを知らない!!」

ついにセシルが絶叫したが、ベッタラはさらに大きい声で怒鳴った。

「知りません! ワタシには、恐れるものなどない!!」

セシルは呆気にとられて、ベッタラを見上げた。ルナや担当役員たちも、セシルを追って、部屋から出てきた。

「ワタシは、“強きを食らうシャチ”! ワタシが恐れるものは何もありません!」

力強い声で言いきるベッタラに、セシルの身体が大きく震えた。

「セーシル、よろしいですか。ワタシは誓います。アナタの呪いは、ワタシが打ち勝ちます。たかが“小さな”ケトゥインの、“猪口才な”魔術師の呪いが破れない男が、この世界を支配しようとしているラグ・ヴァーダの武神に勝つことなどできない」

セシルには、ベッタラの言っている意味が何ひとつ分からない。だが、圧倒されていた。

「ワタシは、バトルジャーヤのアノールの最強戦士ベッタラは、自分と同じ髪の色の子を、見捨てはしません」

ベッタラに髪を撫でられたネイシャは、その大きな手にすがるように、両手で握った。

「ここにいる“仲間”は、だれしもが、ラグ・ヴァーダの武神と戦うべき戦士です。つまり、アナタにかけられた呪いなどは、ごみクズなのです。ごみクズは、ごみ箱に投げるべきです。そうするのが正しい役目です」

「――?」

 

さすがにセシルが首を傾け始めたところで、クラウドの解説が入った。

「ようするに、ベッティーの言いたいことは、セシル、君に術をかけた魔術師なんかとは比べ物にならないものすごい魔術師が、俺たち仲間の中にいるってことだよ」

「――!?」

「そうです! クラウドの意見は正しいことをワタシは証明します!」

セシルは、彷徨うように目を泳がせ、やがて、ルナに目を留めた。

「その“ZOOカード”ってやつが、ものすごい魔術なのかい……?」

ルナは慌てた。

「え、えっと、それは、」

言いかけたところで、アリーがルナの口をふさいだ。どうせなら口でしたいところだったが、女装のせいでそんな気分にもなれなかったので、手でふさいだ。

 

「ルナちゃんのZOOカードだけでは解決はしない。だが、ZOOカードで、君たちが助かる方向性を、見出すことはできる」

クラウドは断言した。

「セシル、よく考えてもみて。俺たちは、昨夜いっしょにネイシャと食卓を囲んだ。そのときは、呪いの影響を受けたりはしなかった」

「――え」

「そうだよ! 昨日、みんなで楽しく、メシ食ったんだぜ!」

夜遅くまで、ゲームもして遊んだ! ピエトが叫んだ。

セシルは、信じられない顔で娘を見つめたが、ネイシャは、何度も首を縦に振った。

 

「なぜなら、彼がいたから――彼はセルゲイ。――夜の神の化身だから、つまり、あらゆる呪術の影響を消すことができるんだ」

いきなり紹介されたセルゲイは、「えっ、私!?」とあわてた。セシルは思わず、この中で一番背の高い男に駆けよっていた。

「あんた! 呪いを解くことができるのかい!?」

「えっ!? それは、――む、無理です」

セルゲイの言葉に、セシルは肩を落とした。

 

「セルゲイ自身はふつうのひとだから。呪いを解くことはできないけど」

クラウドは苦笑した。

「さっき、君たちが来るまで、ペリドットやアントニオ、イシュマールと話していたんだが、セシル、君たちの呪いを解く方法は、大きく分けて二つある」

ルナは驚いた。ルナが、ZOOカードとにらみ合っていた間に、そこまで話が進んでいたのか。

「ひとつは、真砂名神社の階段を上がること」

「真砂名神社……」

セシルはネイシャを抱きしめたまま、話を聞いていた。