ルナは、最初に入った和モダンなカフェでコーヒーと白玉あんみつを食べたら、すっかりいろいろな、たいせつなことを忘れた。白玉あんみつのアイスがたいそう美味しかったせいだ。

そして、大路の商店街を眺め歩き、セルゲイに、夏用の浴衣一式と、かんざしを買ってもらった。ずいぶん値の張るもので、ルナは遠慮したし、アズラエルに知れたらたいへんだと思って固辞したが、セルゲイが閻魔大王のような迫力で、「アズラエルが何か言ったら、アイツが座っているソファを電気椅子に変えてあげるから大丈夫」と大丈夫ではないことを言ったので、ルナは丁重に受け取った。アズラエルのかけがえのない人命のためだ。

セルゲイは浴衣だけに飽き足らず、サンダルだの化粧品だの、アクセサリーに手鏡など、ルナに似合いそうなすべてを片っ端から買い与え始めたので、ルナはさすがに、セルゲイがおかしいことに気付き始めた。

 

「よ、よるのかみさま! セルゲイが破産するよ!」

ルナは、ついに言った。百万デルもする宝石がついたピアスを指さし、「これをくれ」と言いかけたセルゲイを、さすがにとめた。

セルゲイの背が、なぜか急にびくりと揺れて、気まずそうな顔で振り返ったので、ルナは自分の予想が当たったことを悟った。

「“……これは、意外と金を持っているから大丈夫だ”」

地鳴りのような声は、やはりセルゲイではない。

「で、でもよく見て! あたし、ピアス開けてない! わかる? あけてない!」

「“――分かる”」

ルナの耳をそっと撫でて、とろけるような笑みを見せたセルゲイに、ルナではなく、店の従業員から声なき悲鳴が上がった。

「“なら、わたしがあけようか。この石はおまえによく似合うし、……”」

「セルゲイ! もどってきてえ!」

ルナはさすがに泣きかけた。とたんに、セルゲイががくりと膝をついて、広い肩で、ぜいぜいと息をした。

 

「――まったく、どれだけ買い与える気だ」

セルゲイは、カードの限度額を越えたあたりでさすがに戻ろうと思ったが、夜の神が「もうすこし、もうすこし」というので戻れなかった。さすが神。金銭感覚がズレている。

「セルゲイごめんね。返品しますから。ぜんぶ、返品するよ!」

「へ、返品はしなくていいから……」

ルナにプレゼントをすることは、セルゲイにも異存はなかった。でも、どうせプレゼントするなら、ここではなくて、もっとルナの喜びそうなK12区のショッピングセンターあたりで買い物をしたい。そういうと、夜の神はしぶしぶ引き下がった。

「――ああ、わかった、わかったよ。夕食まではいっしょだから、わかった」

セルゲイが、どうしてさっきから上の空だったのか、ルナにはようやく分かった。彼は、夜の神と話していたのだ。

 

ルナに買った、プレゼントの大荷物をシャイン・システムちかくのコインロッカーにあずけて、二人が向かったのは、ステーキ・ハウスだった。以前、ルナがアズラエルとグレンきたとき、行くはずだった店だ。ステーキ・ハウスと名はついていたが、店の外装は女性向けのカフェのようで、店内はカップル客ばかりだった。

「ルナちゃん、ここお肉だけど、いいの? ――夜の神様のいうままに、歩いてきちゃったんだけど」

ルナは喜色満面で叫んだ。

「いいの! あたし、ここに行きたかったの! おにく! おにくだあー!!」

喜び勇んで店内に駆けこむルナの言葉は、ウソでも、無理をしているのでもなさそうだった。夜の神のチョイスは、いちいち的を射ている。セルゲイは、「肉食ウサギ……」とつぶやきながら、店内に入った。

席は暖簾で区切られた個室だ。外観からはあまり想像できなかったが、内装の上品さと、ウェイターの物腰から、おそらく高級店の部類に入るのではないかとセルゲイは推測した。

真砂名神社にお守りを取りに行くだけの予定だったので、部屋着同然のよれたポロシャツに、サンダルだ。ルナはワンピースだからいいが、入店拒否されはしないかとセルゲイは焦った。しかし、スムーズに席に通されたので、ほっとした。

メニューはやはり高級店だった。ルナは値段に耳がしおれたが、セルゲイが、「だいじょうぶ、お肉くらいで破産しないから」と言ったので、嬉しげな顔でうさ耳をぴーんと立たせた。

コースを頼んだので、スープとサラダ、ライスにデザートまでつく。ついでにワインもすこしいいものを頼んで、セルゲイはルナと乾杯した。

めのまえで焼いてもらう、大きなステーキの塊を見ながらルナは、「ピエトも食べたいだろうなあ……」とか「ミシェルもつれてくればよかった」とつぶやくので、セルゲイは苦笑した。

 

「ルナちゃん、今だけはデートのつもりで、ほかのことは考えないで」

セルゲイの言葉に、ルナはぽかんとし、ようやく悟ったのか、「うん」とうなずいた。

ルナは、カットされた大きなステーキをぺろりと平らげ、セルゲイに「あーん」さえしてやった。セルゲイはもちろん、喜んでそれを受けた。

デザートの、桃のシャーベットや花弁のアイス、小さなケーキがデコレーションされた大皿を嬉しげに片付けていくルナを見ながら、

(ルナちゃんと付き合っていたら、こういうのが普通だったんだろうなあ……)

と、郷愁にも似た思いがこみ上げて、なんとなくしんみりしてしまった。セルゲイは、夜の神のテンションが下がるのではないかと心配したのだが、そうでもなかった。彼は、ルナの様子を、実に微笑ましい様子で眺めている。それは、恋人というより、兄の気持ちに似ていた。

かつて込み上げるようにあった、ルナをアズラエルから奪いたいという気持ちや、強引にここからさらってしまおうかという気持ちは、あまり浮かんでこないのだった。

 

(私も、“彼”も、ルナちゃんの、笑顔が見たいんだ)

愛しているけれども、それはそれは――ふかく、愛しているけれども。

寂しそうな顔や、悲しみにしずむ顔、怯えた顔は、もうたくさんなのだ。

 

「美味しかった?」

「うん! とっても! ごちそうさまでした!」

ルナの満面の笑顔を見て、セルゲイは、今までにないくらいの幸福感に包まれていた。

それはきっと、夜の神も同様だった。

 

 

「セルゲイ、ごちそうさまでした。ほんとにありがとう!」

「どういたしまして」

店を出たあと、ルナは、もう一度拝殿まで行くと言った。

「セルゲイにもありがとうを言うけど、夜の神様にもね、ありがとうをもう一回言うよ!」

お肉美味しかったし! ルナは言った。百万のピアスや高級浴衣セットより、ステーキ・ハウスのほうが嬉しかったらしい。ルナちゃんらしいな、と笑いながらセルゲイは、了承した。

すっかり暗くなった境内には、提灯のあかりが灯っていた。階段の両脇に並ぶ灯篭にも火が灯り、川のせせらぎの音も相まって、幻想的な風景が広がっている。

「夜の真砂名神社も、きれい!」

「ほんとうだ。神秘的だね」

セルゲイも感嘆しつつ、ルナとともにもう一度階段を上がる。

ふうふう言いながらルナは拝殿まで上がり、「夜の神様、ありがとうございました!」と大声でお礼を言った。もう夜なので、札所は閉め切られていたし、参拝客は誰もいない。大声を出しても、誰の迷惑にもならなかった。

とたんに、さっきは吹かなかったすずしい風が、ルナとセルゲイの汗を乾かすように、やんわりと吹いた。

 

「――え」

ルナの真似をして、柏手を打ってお参りを済ませたセルゲイが、はっとしたように顔を上げた。

「どうしたの、セルゲイ」

ルナは聞いたが、セルゲイは黙ったままだ。やがて、「――分かった。ありがとう」と言って、ルナの手を引き、階段を降り始めた。

「ルナちゃん、急いで帰ろう」

「え? なに? どうしたの――うひゃ!」

セルゲイは、一分でも惜しいというように、ルナを抱え上げた。そのまま、駆けるように階段を降りる。

「しぇ、しぇる、げい??」

ルナはセルゲイの首根につかまったまま、ようやく言った。

「夜の神様が、今日は、デートしてくれてありがとう、だって」

「ふ、ふえ?」

いっぱい買ってもらったり、ごちそうしてもらったのはルナだ。お礼を言わねばならぬのはルナのほうだった。金を出したのはセルゲイだが――。

「それで、たぶん、ネイシャちゃんたちの呪いを解くための方法を教えてくれた!」

「ええっ!?」

ルナは絶叫した。

「ほ、ほんとに!?」

「ああ! 呪いをどう解くかっていう、やり方じゃないけど、なんとかなりそうだ!」

ルナはもう一度拝殿までいって、土下座してありがとうを言いたい気分だった。

「ふええええん夜の神様ありがとおおおおお」

ルナは半泣きで、セルゲイに抱えられながら、シャイン・システムに乗り込んだ。