(――え)

ルナは目を疑って、二、三度、瞬きをした。だが、錯覚ではなかった。ライアンの右肩に、五センチほどの大きさの、月を眺める子ウサギが乗っていた。

「どこ行ってたの、うさこ!」とルナが叫ぶまえに、ルナの脳裏に恐ろしい光景が浮かんだ。早送りの映画のように、それは次々と展開されていき――ものの一分で、足先まで冷え込むような、恐怖の映像が終わった。

同時に、月を眺める子ウサギも消える。

 

「ルナ?」

ライアンの首に抱き付いたまま、停止してしまったルナを、ライアンは訝しげに呼んだ。

(オオカミさん)

血も凍るようなライアンの運命を、ルナは確かに見せられた。

ルナは悟った。月を眺める子ウサギは、ライアンに知らせてほしかったのだ。

“危険”を。

これは、言おうか言うまいか、迷っている場合ではない。

ルナは急にライアンから身を離し、彼の肩に両手を置いてつかまったまま、何かに突き動かされるようにして言った。

 

「オオカミさん――オオカミさんは、五十歳になるまで、L系惑星群にもどっちゃだめです!」

「――あ?」

ルナの口から出た言葉がひどく予想外だったせいで、ライアンは間抜けな声を上げた。

「いっしょにいる女の子もです! できれば、五十歳になるまで、アストロスから動かないほうがいいです。リリザも行かないほうがいい。リリザにも、探しにきちゃうから!」

ライアンは、目をぱちくりさせていたが、やがて、目に真剣な光が灯った。

ルナの言っていることを、信じてくれたかどうかはわからないが、理解はしてくれたようだ。心当たりがあるのか。

 

「――俺は、五十になるまで、地球にいたほうがいいのか」

と真面目な顔をして、聞いてきた。ルナは泣きそうな顔になり、

「オオカミさんは、地球に行けない、です……」

と小さな声で言った。そしてルナは口をパクパクさせた。ルナは、さっき見た映像の内容を全部話そうと思ったのだ。だが、なぜか、言葉が口をついて出てこない。これ以上は話すなということなのか。ルナは必死で言葉を発しようとしたがダメだった。無理だとわかり、ルナはまるで自分のことのように、悲しげに目を伏せた。

 

ライアンは、地球には行けない。いっしょにいる女の子も――そして、どこかグレンに似た面影の、車いすの青年も――。

 

ライアンは、口をつぐんだ。それから、一瞬だけ、おなじ悲しげな目をした。

「少なくとも――俺は、五十歳までは生きるんだな」

ルナは首を振った。

「もっと生きるよ。オオカミさんは、もっと生きます。おじいちゃんになるまで生きるの。でもね、――大切な人をなくしちゃう。――だから、L系惑星群には、もどっちゃだめ。ぜったい、だめ」

「……」

ライアンは迷う顔を見せたが、

「L系惑星群に戻らなければ、俺は大切な人間を失わずに済むんだな?」

と念を押した。ルナはうなずいた。

ライアンは、ルナをもう少し高く持ち上げて、ルナの鎖骨にキスをした。ルナはいつもなら悲鳴を上げていたとおもうが、そうならなかったのは、ライアンに性的な意図がまったくなかったためだ。

「――ありがとう」

ライアンは神妙に言った。それからもう一度、ルナの額に口づけた。

 

「なにをしますか」

ライアンもルナも、横から投げつけられた鋭い声に、ぽかんとした顔でそっちを見た。

ベッタラが、ライアンの手首をつかみ締めている。ライアンは平然としているが、骨がミシミシときしむ音が、ルナにまで聞こえそうだった。

「ルーナさんになにをしますか! この、――れっきとしたチャラ男め!」

ベッタラの共通語録はいったいどうやって構築されているのだろう。スラングも正当な言葉もお構いなしだ。

ライアンは急に現れたベッタラを睨み付けていたが、何を悟ったのか、ニヤリと口をゆがめると、今度はルナの唇にちゅっとやった。

「――!!!」

「――!??」

ルナもぴーん! とのけぞり、ベッタラは「このヘンタイめ!」と怒鳴った。

 

「ヘンタイ!? ヘンタイはてめえだろ! ずっと覗き見してやがったのか!!」

「アーイスクリームーを買ってきたら、ルーナさんがいなくなっていたので探したのです! こんなヘンタイに浚われているとは!」

「俺はヘンタイじゃねえ! ルナとは泳いでただけだ!」

「くっ、くくくくちづけをしていたではありませんか! 不道徳な! 夫がいる女性を奪うなど……! アノールではヘンタイの行為です!」

「あ!? てめえ、アノール族か?」

 

ライアンはベッタラの髪をマジマジと見、それからルナを見て、ベッタラを見――ふたたびルナに視線を戻した。そして、しみじみと、感心するように言った。

「ラガーの店長が、アズラエルの彼女は小悪魔ちゃんだって言ってたけど、アノールの男まで侍らせてんのか……いや、すげえなアンタ」

「ちがいます!!」

久しぶりに聞いた、不名誉な二つ名だ。

「そう謙遜するな。あんたなら、分かる気がするぜ?」

ルナは盛大に否定したが、ライアンは誤解を解かなかったし、ベッタラがさらに誤解を深めた。

「ルーナさんがアーズラエルの恋人でなかったら、ワタシだって、ワタシだって!」

「コイツもおまえのこと好きだってよ」

「ち、ちがうの……! ベッタラさんは、イルカさんを探してて、」

「イルカあ?」

「イルカもいいですが、ワタシは、ルーナさんなら、イワシだって……!」

「イルカにイワシで、俺はオオカミね。おまえら、おもしれえな」

ライアンはルナを抱きかかえたまま笑い、またルナの唇にキスしたので、激怒したベッタラがライアンの首をつかみにかかった。結果、ルナは水の中に放り投げられた。

「ぷぎゃ!」

「ルナ!」

「ルーナさん!!」

ライアンとベッタラは、おぼれウサギの両手を左右から掴んで引き上げる。ベッタラのほうが早かった。ライアンに渡したくないあまりに、ベッタラはルナを引き寄せて、抱きしめてしまった。

「うわあ! すみません!」

真っ赤になってルナを突き飛ばし、再びウサギは水の中に沈んだ。

 

「なにやってんだてめえ!」

ライアンが慌ててルナを抱え上げる。

「い、いや、だって……ルーナさん、やわらか……」

完全に挙動不審になったベッタラに、「ヘンタイはてめえじゃねえか」とライアンのツッコミが刺さった。

「ワタシは違います!」

ボートのカップルたちは、「修羅場だ、修羅場だ」と言いながらその光景を見守っていた。