小鍋でバターチャイを煮、銅製のカップふたつに注ぎいれてから、アンジェリカは目だけでトレイを探した。

そういえば、宝石まみれの、大理石でできたあのトレイは、ユハラムたちに持たせてしまったのだった――あれは高く売れそうだったから――トレイの一つくらいは残しておけばよかったと思いつつ、宝石のついたお盆など、もはや自分たち姉妹には必要のないものだ。ふつうの、プラスチック製のトレイをあとで買いに行こうとアンジェリカは決意し、少し冷めるのを待ってから、カップを手でもって、絨毯の上に座り込んでいる姉のもとへもどった。

 

 アンジェリカとサルーディーバは、引っ越しの準備中だった。K05の住宅街にある、ちいさな平屋建ての家屋に引っ越すのだ。ふたりで暮らすなら、こんな大きな屋敷はもう、必要ない。

 

 「このお屋敷は、なにもないとずいぶん広いものですわね――家具が多すぎたのでしょうか」

 家具がすっかりなくなった部屋は、殺風景というか、ただただ、ものすごく広かった。

 サルーディーバが宇宙船に乗る際、「ご不自由はさせません」と言わんばかりに、王宮を思い出すような高級家具や道具を大量に持たせてきた長老会だったが、サルーディーバにとっては邪魔なだけだった。

 

 「必要最低限があれば、いいと思いませんか。L03で蟄居中だったころ、外に出られないのは困りましたが、あの生活はわたくし、嫌いではありませんでしたわ」

 サルーディーバはそう言って、微笑んだ。

 L03での八年にも及ぶ蟄居。三部屋しかない平屋の家屋に、使用人二人と、アンジェリカと、サルーディーバは住んでいた。次期サルーディーバをこんなところへ押し込めるなんて、と周りは憤慨していたが、当のサルーディーバは平気な顔をしていたことを、アンジェリカは思い出した。

 「アンジェを呼べば、すぐ返事がありますもの。このお屋敷では、誰かを呼んでも、すぐ返事が返ってきませんでしたわ」

 「広すぎたもんね」

 アンジェリカも笑った。

 アントニオが、「引っ越すなら、二人そろってリズンの二階においでよ」と言ってくれたのだが、それはアンジェリカが断った。

 サルーディーバが落ち着きたいと願っているのは確かだ。極端に文化の違う生活は、なるべくならさせたくない。

 

 長老会がもたせた高級な品は邪魔ではあったが、あれらが高値で売れたことを考えると、かえってよかったのではないかとすら思えるものだ。

 もとからこの屋敷にそなえ付けられていた絨毯やエアコン以外の家具一式――タンスやソファ、鏡やベッド、不必要なくらいそろった食器や雑貨、宝石の数々、それらすべてを、アンジェリカは、郷里へ帰るユハラムたちに持たせた。

 それらを金と食糧、必要な物資に変えて、L03に届けるためだ。船内で売り払えるものはすべて売り払った。

食糧などはL05あたりで買い集めなければならない。しかし、混乱中のL03に入れるのはいつになることか――。

 L03は混迷の一途をたどっている。軍の支援がおぼつかず、民は食べるものにすら事欠くありさまで、サルーディーバですらカビのはえたパンを食べているという現状にアンジェリカは絶句し、できうる限りの支援を送ろうとしたのだった。

 

 先日、サルーディーバについてきた、二十人以上の付き人や王宮護衛官を、ことごとくL03へ帰した。彼らが王宮まで着くのに――支援物資が王宮に届くのに、あと何ヶ月かかるだろうか。

 彼らは全員L03に帰されるという事態に当然おどろき、反駁したが、サルーディーバが時間をかけて説き伏せると、やがてひとりずつ、諦めた。

サルーディーバはスパイのことはいっさい口にしなかったが、スパイであったユハラムとヒュピテムは、一番先に命令を承諾した。メイドと王宮護衛官の筆頭である彼らが真っ先に承諾したことが、ほかの皆の気持ちを動かしたのは、言うまでもない。

 

 「……今頃みんな、どこにいるかな」

 L03は遠い。出発して二日ぐらいでは、移動距離も知れたものだが、アンジェリカは懐かしんだ。

 

 ユハラムも、ヒュピテムも、セゾも――みな、みんな、大好きだった。

 

 「アンジェリカ」

 サルーディーバは慈愛を込めて、妹の肩に手を置いた。

 「皆は、死にはしません」

 「……」

 

 予言師ではなかったが、アンジェリカには予想がついていた。スパイだったユハラムとヒュピテムは、おそらくメルヴァの手のものに殺されるか、自害する。サルーディーバは決してふたりを責めることもなく、彼らがスパイだと知っている、ということも口にしなかったが、彼らはメルヴァとサルーディーバのはざまで揺れて、死をえらぶに違いないことは、アンジェリカには分かっていた。

 ほかの皆も、L03にもどれば、現職サルーディーバを守って死んでいくかもしれない。

 「誇りある死を!」と願う彼らのことだ。

 次期サルーディーバを守るために、宇宙船に乗せられたというのに、当のサルーディーバから、L03に帰れと言われたときの彼らの絶望した顔を、アンジェリカは忘れたわけではない。説得によって観念はしたが、彼らの心に残った傷は大きいのだ。

 しかし、スパイだとわかった以上、傍に置いておくわけにはいかなかった。

 サルーディーバは、彼らがメルヴァのスパイだとアンジェリカから告げられたとき、冷静に事実を受け止めたのだった。そして彼らをあわれみはしたが、スパイ行動については否定も肯定もしなかった。

 しかし、サルーディーバも、スパイを屋敷内に置いておくことはできないと、アンジェリカの提案を受け入れ、彼らをL03に帰すことを承諾した。

 アンジェリカの説得ではなかなか頷かなかった、ユハラムとヒュピテム以外の者を説得したのはサルーディーバだった。

 

 「アンジェリカ。彼らは命を無駄にはしません――わたくしは、彼らに、“役目”を授けたのです」

 「役目……?」

 「ユハラムには、王宮に着いたらただちに現職サルーディーバ様に許可を願い出て、王宮書物庫にあるすべての書物を、地球行き宇宙船に送るよう命じました」

 「ええっ!?」

 姉の、予想外の返答に、アンジェリカは目を剥いた。

 「王宮の、歴史ある書物を戦火に焼かせるのはしのびない。戦争とは、文化の崩壊も意味します。いまでは、王宮内の書庫も二、三焼かれて、貴重な書物が消失したと聞きました。混乱している今のL03には、入ることもひと苦労でしょう――それからまた、脱出するルートをさがす――しかも書物を大量に送るということは大変かもしれませんが、ユハラムは、なんとしてもやり遂げると言ってくださいました」

 

 「姉さん!」

 アンジェリカは姉にすがりつき、声を放って泣いた。

 ユハラムは、これでおそらく、自害することはない。サルーディーバ直々にくだした命を、彼女は何としてもやり遂げるだろう。

 自分にはできないことだと思った。姉にしか、できないことだった。

 サルーディーバはアンジェリカの嗚咽をなだめ、彼女が落ち着くまで待った。そして、次の言葉を口にした。

 

 「ヒュピテムには、わたしたちの両親の元へ向かい、わたしたちの“ルーツ”を聞いてくれるよう、頼みました」

 「ルーツ……?」

 アンジェリカは戸惑った。

 「ええ。ルーツです」

 「ルーツって……うちは、ただの中級貴族で――」

 一族から、予言されたサルーディーバが輩出された件で、生家「エルバ家」は上級貴族になった。メルヴァの革命のとき、いち早くL05に亡命したため、両親は無事だ。

 L03に古くからある家ではあるが、とくに変わった“ルーツ”があるとは、アンジェリカは思えなかった。