百三十一話 孤高のキリン V



 

 カレンは、このところ、毎夜夢を見ていた。

 空には暗雲漂い、眼前にそびえたつのは巨大な山岳だ。カレンには、その向こうが見えている気がする。山の向こうの景色が。

夢から覚めたあとはその景色をさっぱり覚えていないのだけれども、カレンには見えていた。

なぜなら、カレンは首の長いキリンだからだ。

キリンだから、長い首を伸ばして、山の向こうが見えるというわけだ。

向こうが見えるわりに、足は一向に動かない。重しがついているように、細い足は、巨大な首と体を持て余しているようにまえに進まない。

暗雲の空にはなぜかいつも白鳥が飛んでいて――群れであることも、数羽しかいないこともある――カレンを、見下しているのだ。揶揄や、罵声が降ってきたこともある。

カレンはその羽根を食いちぎってやろうかと考えたこともあるけれど、足がずぶずぶと泥沼にはまっていくようで、空を飛び続ける彼らには、いくら首を伸ばしてもとどかないのだ。

 

その日の夢は、ことのほかひどかった。

暗雲だけではなく、山の向こうが不気味な赤に染まっている気がした。夕日なんてものではない。血のような赤だ。

なぜだか気がせいて、足を踏み出そうとして、またしてもずぶずぶと泥沼に沈みこんでいく。

ズダーン!!

カレンは思わず、自身の胸を見た。撃たれたかと思ったのだ。

あれはたしかに銃声だった。

しかしカレンはどこもケガをしていなかった。不安ばかりが心中を駆け巡る。

周りを見ても、だれも撃たれたものはいない。

だれもいない。

白鳥すらも、周りにはいなかった。

カレンは、この不気味な世界にたったひとりだということに、急に恐怖をおぼえた。

 

 

「うわ……ああっ!!」

カレンは飛び起きた。

「かっ……は、はあ……っ、」

 

全身が汗でびしょびしょだった。頭から水を被ったように濡れている。枕もとの時計は午前三時をさしていた。

「……、……っ、」

カレンは手探りでリモコンをさがし、枕もとのへりにあるそれに肘がぶつかって、大きな音がした。ふるえる指先になんとか力を込めてひろった。上手くリモコンをつかめない。やっとの思いで、消していたエアコンをつけた。

ひとつ深呼吸をしてから、浴室へ向かった。

頭からシャワーを浴びて汗を流し、Tシャツとスウェットをあたらしいものに変えた。髪を拭きながらキッチンに向かい、ミルクを電子レンジで温めてからはちみつをひとさじ落とし、ゆっくりとそれを飲んだ。

 

アバド病は、完治したはずだった。

それなのに、最近寝汗がすごい。真夜中に、一度は目が覚めて飛び起きる。

今日のように夢の内容を具体的に覚えているのはめずらしかったが、悪夢にうなされているのは違いなかった。

このところジュリが帰ってこないことは、幸いだった。ジュリは分別がすこし足らないだけで、根はやさしい子だから、心配をかけてしまう。おまけにジュリは、黙っていることなどできはしないから、皆の前で「カレンってば大声あげて夜中に起きるのよ」などと言われたが最後、宇宙船を降りることにも支障が出るのは違いなかった。

今は、セルゲイに一番、不安定な姿を見せたくなかった。

「やはり君をひとりにはできない」と言いだして、ついてきてしまうだろう。

セルゲイの説得は、まだできていない。

先日、担当役員であるタケルに、正式に降船の意志をしめした。セルゲイは何も言わなかったが、ついてくるつもりなのは明白だ。彼はすこしずつ、荷造りをしている。

セルゲイは物わかりがよさそうに見えて、ひどく頑固だ。「一生そばにいる」という、まるでプロポーズのような誓いを、そう簡単にくつがえすことはない。

 

カレンは額を押さえた。

「あれ」が一番、良くなかった。

 

セルゲイがルナと出会ったばかりのころ、彼はルナに対する恋心を完全に捨て切ろうと、宇宙船を降りようとした――それを、最初は認めておきながら、不安定な心のまま追って引き留めてしまったのは、カレンだ。

 

ミラは、セルゲイに、「カレンを地球に連れて行ってほしい」とお願いはしたが、それは契約ではない。

セルゲイは一応「主治医」だが、あくまでもカレンの友人として同乗しているのであって、宇宙船を降りる降りないは、セルゲイの自由意志だ。

 

ただ、首相から頼まれた、という事実は、「頼みごと」とかるく片付けられない節がある。

セルゲイにとっては「友人の親」から頼まれた、というより「首相からの依頼」の意味がつよいことは、カレンにもわかっている。ミラにそんなつもりはなくとも、「首相」の立場というものは、たったひとことにそれだけの重みを含むのだ。

しかし、ミラ自身が、カレンの様子を逐一知らせることを拒んだというのだから、セルゲイは本来なら、ミラの「頼み」を律儀に聞いて、カレンにくっついていることなどしなくていいのだ。

現にセルゲイは、一度は帰路に着いたが、そのことに対してミラは何も言わなかった。

セルゲイの仕事のことを考えれば、カレンと一緒にもどったほうがいい、ともいえる。

しかし、ルナのために、セルゲイは宇宙船に残ってほしいとカレンは思っていた。

 

カレンは、宇宙船に乗ってあたらしい友人もでき、それなりに楽しくやっていた。

おそらく、「メルヴァの件」がなければ、自分は「継母に見捨てられた」といういくばくか拗ねた思いを抱えながらも、なんだかんだいって、地球まで着いていただろう。

グレンも地球に着きたいと願っているし、セルゲイやミラが心配している、カレンを孤独にすること、は気にしなくてもいい。

グレンは、最初は嫌悪感ばかり募る相手だったが、互いの「家」さえ見なければ、気が合うということがわかった。

このまま乗っていればジュリも地球に着くだろうし、地球に着いてからてきとうな職をさがし、ジュリとグレンと、悠々自適の生活をおくるのもいいかなと、考えるくらいだったのだ。

言わなければ――名前も変えてしまえば、自分をマッケランの嫡子と分かる人間はいない。

 



*|| BACK || TOP || NEXT ||*