セルゲイは、スーツケースを、自室に運び入れた。スーツケースの中身は、数少ない自分の荷物。すでにカレンの分は荷造りして、タケルに届けた。 マックスに許可は得ているから、ルナとミシェルに手伝ってもらって、ジュリの荷物をこちらの部屋に運びなおさなければならない。女性の下着やらを勝手に荷造りするのは、セルゲイも気が引ける。 ジャック・J・ニコルソン殺害現場となってしまったあの部屋は、もう立ち入り禁止になってしまった。 ジュリの退院をまって、みんなそろって、引っ越すことになるだろう。 それは、アズラエルもクラウドもグレンも、承知の上だ。カザマやバグムントも、あたらしい住居の手配をはじめている。 タケルがカレンに着いて、L20に出発したのを機に、セルゲイの担当役員も変わった。あたらしい担当役員は、なんとチャンだった。チャンが、グレンとセルゲイの担当役員になったということだ。 (チャンさんは、メルヴァの件にも関わっているから、だろうな) やるべきことは残っている。 セルゲイは、宇宙船に残ることを選択した。ルナを、なんとしても守らなければならない。カレンに着いて行きたいと願いながらも、宇宙船を降りることに踏ん切りがつかなかった。 まずはジュリに、カレンが降船したことをどう告げるかが一番の難題だ。マックスもついていてくれるが、ジュリの落胆ぶりが想像を超えるような気がしてセルゲイはすこし不安だった。先日からジュリを襲った悲劇は、度を過ぎている。 (気持ちが、持つだろうか) セルゲイは、スーツケースを開けたが、自分の衣服をタンスに詰めなおすのはめんどうで、そのまま放り投げて、ベッドに腰掛けた。どうせ引っ越すのだ。 (――それに) スーツケースはそのままにしておいたほうがいい。いつでも、カレンを追っていける。寂しがり屋のあの子が、いつ、セルゲイを求めるか、分からない。 『セルゲイ――宇宙船に残って』 今朝まで、ララ邸で、カレンと一緒に過ごしてきたセルゲイは、カレンにきっぱりと、そういわれた。 『君を放っておくわけにはいかないと、何度も言ったよ』 『あたしのためにも、だよ』 カレンは言った。 『ルナのためだけじゃない。あたしのために』 セルゲイは首を振ろうとして、止まった。カレンが、震える腕で、セルゲイを抱きしめてきたからだ。 カレンの両腕は震えていた。けれども、しっかりと、カレンの頬はセルゲイの胸に埋められている。 『いまはこれが――精いっぱいかな』 カレンは、腕と同じくらい震える声で言った。 『あたしにはいつだってセルゲイが必要なんだ。セルゲイと離れて暮らすことを考えたら、不安でたまらなくなる』 『だったら――』 セルゲイは、抱き返してもいいものか悩んだ。 『でも、あたしは、地球も見たい。――あたしのわがままだ。セルゲイ、ごめん。あんたはいつだって、あたしのわがままを叶えてくれた』 『カレン、』 『あたしの代わりに、地球を見てきて。それで、かならず、あたしのところに戻ってきて』 ――地球がどんなところだったか、あたしに話して。 それから一生、あたしの傍にいて。 『抱きしめてくれないの』 そういったカレンを、セルゲイはもちろん抱きしめた。もちろん、友人としての信頼だけではない。それを、カレンも分かっている。 まだ、カレンのぬくもりが、手に残っている気がする。 (ずるいよ、カレン) セルゲイが、カレンの「わがまま」を聞き届けないわけがないと、知っていて。 (メルヴァとの戦いを終えて、無事地球に着いて、それからカレンのもとにもどるまで、おあずけってことかな) 部屋に戻ったミシェルも、ぼーっとした顔でダイニングの椅子に座っていた。 ルナの部屋にいてもよかったのだが、ルナもぼーっとしているに違いないし、今日はミシェルも、ぼーっとしたかった。なにも、考えたくはなかった。 ミシェルは、セルゲイが降りなくて、本当によかったと思った。セルゲイまでいなくなってしまったら、さみしさ倍増だ。 意外と自分はさみしがり屋だったのだと、ミシェルが新たな発見をしているところで、クラウドが向かいの席に座った。 クラウドは、だまってコーヒーを淹れ、ミシェルのまえにも、ミルク・コーヒーをたっぷり注いだマグカップを置いた。 「さみしくなるね」 クラウドは、さすがに今日は泣いていなかったが、それだけ言った。 そういえば、この部屋のコーヒーメーカーをつかったのも、久しぶりかもしれない。ここのところずっと、アズラエルのエスプレッソ・マシンのお世話になっていた。 つまり、それだけ彼らの部屋に入り浸っていたのだ。 アズラエルとルナ、ピエト。グレンとセルゲイと、カレンとジュリ、クラウドとミシェルで、まるで大家族のように暮らしていた。 (ひとり、減っちゃったな) さみしいと思う。それはたしかだ。でも、カレンとの別れは、前向きなものだった。 (カレンも、メルヴァとの戦いのために、宇宙船を降りた) ――あとは、ロビンだけ。 クラウドの推測が当たっていれば、「ヴァスカビル」の名は。 そこまで考えたところで、クラウドはミシェルを見つめた。 引っ越しのことをいつミシェルに話そうかとタイミングをはかっていたのだが、今はその時ではなさそうだ。 心ここにあらずといった顔でマグカップを引き寄せたミシェルは、呟いた。 「あたしね、カレンの妹のアミザってひとに、似てたんだって」 ミシェルが鼻を啜った。 「写真を見せてもらったことがあるけど、ぜんぜん似てなかった。……うああああん」 なにが心の琴線に触れたかしらないが、ミシェルはついに号泣した。 クラウドは、今度こそ、“ミシェルを心身ともに時間をかけてなぐさめる俺”の図を思い浮かべながら、ミシェルを抱きしめようとしたところで、電話が鳴った。 クラウドは舌打ちしたが、号泣中のミシェルはそれどころではない。 電話というものがこの世界の存在することを心底恨めしく思いながら、クラウドは、受話器を取った。 「はい――もしもし?」 『……』 「もしもし?」 応答がない。 これが悪戯電話だったなら、ミシェルとイチャつくわずかなチャンスを邪魔した罰として、なにがあっても相手を探し出し、死んだ方がましな目に遭わせてやると、アズラエルも真っ青の凶悪面をしたクラウドだったが。 『もしもし――私、エーリヒ』 クラウドは、受話器を叩きつけるところだった。 『今、君のうちの真ン前にいるの』 |