ピエトとアズラエルが自宅に戻ると、ルナが大輪のバラの花束を抱えたまま、リビングに立ち尽くし、宙をただようくらげのようにアホ面をさげていた。

「ただいまルゥ――なんだそれは」

ルナのアホ面は今に始まったことではないし、今日はカレンが旅立ってしまったこともあって、アホ面も極みだろう。アズラエルは、今日一日くらい、ルナがアホ面でいることを許してやろうと思ったが、なぜ花束を持っているのかくらいは聞いてもいいはずだ。

「タカさんが来たよ!」

ルナは、いま、アズラエルとピエトの存在に気付いた顔をした。

「タカさんが来た! エーリヒさんが!」

「あァ?」

 

 

 

「“マリアンヌの日記”って――これが?」

クラウドは、プラスチックの透明ケースに入った、ラベルもついていないディスクの裏表を眺めて、興奮ぎみに問うた。

「どうやって手に入れた?」

 

「マリアンヌの足跡をたどり、L31の文書保管センターまでいって、マリアンヌの日記のデータが残っていないかたしかめただけ」

エーリヒは、つづけた。

「メイン・コンピュータにデータはかろうじて残っていた。前半6冊分だけ。マリアンヌが書きつづけてきた、分厚い百科事典のような手書きの日記13冊を、彼らは電子文書化し、複雑なロックをかけたディスクをつくった」

「6冊分……」

「いいかねクラウド?」

エーリヒは身を乗り出し、声を低めた。

「マリアンヌが残した“マリアンヌの日記”というディスクは、かなり複雑な仕掛けがほどこされていた。――おそらく、“君”以外の人間が読めないようにしたのだろう。驚異的な速さで文章が流れ、一度再生された部分は、二度と読めない。リカバリーもできない。片っ端から消えていくのさ。つまり、驚異的な速読力と記憶力をもつ君しか、解読できないのだ」

「――それでユージィンは、俺を宇宙船から拉致しようとしたのか」

 

傭兵グループ、「ヘルズ・ゲイト」をつかって、クラウドを拉致しようとした――「マリアンヌの日記」の解読のために。

エーリヒは「そうだ」と同意したあと、

「君がマリアンヌ嬢から聞いたIDは、ディスクを再生するパスコード、パスワードは、一時停止できるコードだ。それも、一時停止は三回しかできない」

 

クラウドは、あのときカサンドラが教えてくれたIDとパスワードを思いだし、ごくりと息をのんだ。

 

IDは、『船大工の兄』、『船大工の弟』、『夜の神』、『月の女神』。

パスワードは、『マーサ・ジャ・ハーナ』。

 

「ユージィンが、“マリアンヌの日記”にドーソン一族の滅亡を食い止める秘策がないかと血眼になって探している。だがいまだに、あのディスクをどうすることもできない――最先端の科学技術でも、どうすることもできないのさ。

コンピュータに読み上げさせたり、記憶させたりしてスロー再生するなど、あらゆる方法をためした。だが、ダメだ。データは消えるだけで、ユージィンが情報を得ることも、中身を読むこともできなかったというわけだ。おかげで、“前半6冊分ほど”、消えてしまったらしい」

クラウドは、ディスクを思わず見直してしまった。

「そう。ちょうど6冊分――私も、ちょうど6冊分のこっていると言われたときは、顎が外れそうになった――これは、L03ではふつうのことなのかな?」

エーリヒは首を傾げた。

「それとも、マリアンヌ嬢のマジックか? ――とにかく、6冊分を焼き直してもらった。だが、このデータが最後だ。もうL31の書庫保管センターにもデータはなくなる。たいせつにあつかってほしい。実は、マリアンヌのディスク作成にかかわったエンジニアがL18から帰ってこないという話でね、」

「――!」

「彼らは私のためにデータを焼き終わったあと、コンピュータに残ったデータはすぐさま廃棄した。おまけに、センターから外に出たら、ドーソン子飼いの秘密警察が私を張っていた。――まくのに苦労したよ」

「……」

「そのディスクは、何の仕掛けもほどこされてはいないから、君の速読も暗記力も、IDもパスも必要ないな――どうだね、今すぐ」

「ああ。もちろん見よう」

エーリヒとクラウドは即座に立ち上がり、会計を済ませて店を出た。

 

 

 

 「ルナちゃん、いる? ――あれ?」

 セルゲイが、ルナとアズラエルの部屋のリビングに顔を出した。

 「どうしたの? そのバラ」

 セルゲイは、キッチンテーブルの真ん中で、ずいぶん存在感を示しているバラの花束を見て言った。真っ赤な大輪のバラだ。

ルナがぱたぱたとリビングから走ってきて、まくしたてた。

 「黒いタカさんが来たの! やっと! フラレたからあたしにバラをくれたの。エーリヒさんはフラレるとバラをかざるくせがあるんだって! それから、きょうのあたしはアホ面だから、お昼も夕飯もつくらないから、みんなでリズンにいったりしよう?」

 小首をかしげてダメ? といわれてしまえば、基本的に妹にメロメロのお兄ちゃんはうなずくしかなかった。

 

 「黒いタカさん?」

 セルゲイが今度は小首を傾げたが、それへの返事は、面倒そうなアズラエルの解説だった。

 「エーリヒ・F・ゲルハルト。心理作戦部隊長で、クラウドの元上司だ」

 セルゲイは、そろそろ乗ってくるかもしれないと言われていた、クラウドの元上司の名前を思い出した。

 「なるほど……新しいルーム・シェアのメンバーは、男性か」

 セルゲイがのんきな顔で言ったのに、アズラエルがかみついた。

 「は!? 冗談じゃねえ。アイツがいっしょに暮らすって?」

 ライオンの遠吠えを、セルゲイは無視した。

 それにしても、ルナは元気そうだった。さっきミシェルに声をかけたら、「今日はあたし、なにもしたくない……」と情けない返事が返ってきたので、セルゲイはあきらめたわけだが。

 「ルナちゃん、手伝ってほしいことがあるんだけど」

 「うん、いいよ!」

 ルナには、頼めそうだった。

 

 セルゲイがルナに頼んだのは、ジュリの荷物の整理だった。どうやら、今日中にこの部屋から荷物を撤去しないといけないらしい。

 「ひっこし?」

 ルナは、驚いて目を丸くした。この様子だと、ミシェルもまだ、引っ越しのことは聞いていないだろう。クラウドは、さっき部屋にいったらいなかった。ルナにそれを言うと、

 「うん。ミシェルもまだ知らないと思う。クラウドは、エーリヒさんとマタドール・カフェに行ったよ」

 引っ越し先はどこだろう、とぶつぶつ言い始めたルナに、セルゲイは、

 「たぶん、K35か36、あるいは、K20あたりになるんじゃないかって」

 「え!? K27から出るの?」

 ルナは叫んだが、セルゲイは苦笑した。

 「いままで暮らしていた部屋が、K27区でいちばん広い部屋だったんだ。――となると、いいところがなかなかなくて」

 「……」

 「今はシャインもあるし、K27区から出てもいいんじゃないかなって。急ぎだったものだから……勝手に決めちゃって、ごめん」

 「う、ううん……」

 ルナは首を振ったが、口調は元気がなかった。

 ほかの区画に行くということは、レイチェルたちとも離れ離れになってしまうし、なにより、リズンと、慣れ親しんだ公園が、遠ざかる。

 

 「引っ越しのことは、午後にでも話があると思う――私はそのまえに、病院に行ってくる。ジュリちゃんの目が覚めたらしいから」

 ルナはぴょこんとうさ耳を跳ね上げた。

 「……セルゲイひとりでだいじょうぶ?」

 「いや、私だけじゃない。グレンも一緒だよ」

 目覚めたジュリに、ジャックが亡くなったこと、カレンが降船したことを告げねばならないのは、だいぶ重荷だった。

 「それでも、告げなきゃならないからね――ルナちゃんは、どうかジュリちゃんの荷物の整理を頼む。荷物は、私とグレンの部屋に運んでくれれば」

 そういってセルゲイは、ルナの手に合鍵を置いた。

 



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