そのころ――中央区役所。 三階の派遣役員執務室のまえに、ひとりの男性が立っていた。 あまり特徴のない外見である。黒髪に平凡な顔、白シャツに濃い色のパンツ、革靴――彼は、受付で人のよさそうな笑みを浮かべて、「申し訳ありません、ソフィーさん」と言った。 「引っ越しのゴタゴタでなくす人が、多いことは多いんですけど、気を付けてくださいね」 二メートル越えの、ゴリラかクマみたいに巨漢の女性役員は、そのコワモテ顔に反して、人の好い性格だった。 「すいません。ほんとに――あわててあっちを出てきたものですから、ゴミもいっしょくたにトランクに入れて――片付けのときに、いっしょに捨てちゃったのかな――見当たらないんです。免許証といっしょに、どこかにしまって――」 「だいじょうぶですよ。生体認証からやり直してもらうことになるけど、再発行はできますから」 「すいません。ふだんはこんなことないんです」 「そうね。軍人さんでは、めずらしいかも」 彼女の口調に嫌みはなかったので、男性は、困り顔で笑みをこぼしたのだった。 ベン・J・モーリスと名乗った、特徴のない若い男性が願い出たのは、この宇宙船を出入りするのに必要な、認証カードの再発行である。ソフィーという名の巨躯の女性は、彼の担当役員であった。 ベンは、ソフィーのあとについて生体認証をする部屋に行く際、遠慮がちな声で告げた。 「ほんとにすいません――あの――エーリヒ隊長には内緒にしてください。これがバレたら、俺――」 「はいはい、分かりました。エーリヒさんには内緒ですね」 重ねて言うが、ソフィーという女性はひどく人のいい女性だった。彼女は安心させる口調で、ベンをなだめた。 心理作戦部という、軍でも特殊な部署出身の軍人である。宇宙船に入って早々、認証カードをなくしたとなれば、上司から叱責を受けるのはあたりまえだろうし、初めて見たときから、この男性がどこか頼りなさそうな気は、ソフィーにもしていた。 ソフィーに比べたら、どの男性もだいたいは頼りなかっただろうが。 「じゃあ、装置に入ってください」 生体認証システムの部屋に入り、ベンは腕時計やベルトなど金属系統のものをすべて外して、ボックス型の装置に入った。 この装置がつかわれる理由は、L系惑星群に登録してある生体認証と、照らし合わせるためだ。ピエトのように、もとから戸籍がない者の場合は、ここではじめて「戸籍」ともいえるべき生体認証が保存されるが、L系惑星群に戸籍がのこっているほとんどの人間は、戸籍と「同一人物」かをチェックされるのだ。 装置内でたった数秒、全身をスキャンするだけで終了。とくに手間はない。 「はい――生体認証、確認されました――」 装置は、ベンを「ベン」だと認証した。 係員の声がして、装置のドアが開いた。装置から出てきたベンは、なぜかものすごい汗をかいていた。室内はエアコンが効いているはずなのに。 「だいじょうぶ? エーリヒさんには言わないから、安心して」 優しいソフィーは、この気弱そうな軍人が、認証カードをなくしたことを上司に知られることを、それほどまでに怯えているのだと勘違いした。ソフィーは彼の上司であるエーリヒを思い出した。そう厳しい人には見えなかったが。 「ありがとう……」 係員がタオルを出してくれたので、ベンは汗を拭いて、パイプ椅子の上に置いた。 「写真は、このあいだ撮ったものをつかいますね。――三十分くらいでできますから、下のロビーで、待っててください」 「はい」 ベンは素直にうなずき、部屋から出た。だが、彼はカフェのある階下へは行かず、三階の自動販売機のとなりのソファで、缶コーヒーを飲んでいた。 「カフェに行かなかったの」 ソフィーは、三十分すぎるまえに、認証カードを持ってきた。 「カフェは混んでて」 ベンはやはり、汗をかいていた。ソフィーはハンカチを貸そうとしたが、ベンがカードを受け取り、「ありがとうございます」とほっとした笑顔を向けたので、貸すタイミングを失った。 「もう、なくさないでくださいね」 「はい。気を付けます」 ベンは礼をして、去って行った。ソフィーは彼の後ろ姿を見送り、自分のデスクにもどった。 ――傭兵グループ「アンダー・カバー」が、自主的に、地球行き宇宙船を降りたのは、その日の夜だった。チャンはクラウドが言ったように、「アンダー・カバー」が強制降船にならないように手配していた。 彼らは自主的に降りたため、担当役員が出身星まで見送るということはない。よって、彼らのゆくえは、だれにもわからない。 担当役員は、基本的に、例外がないかぎり、船客のプライベートに立ち入らないものである。担当役員が乗客にふたたび接触するのは、だいたい降りるときくらいのものだ。 ソフィーももれなく、そうである。 「本物」のベンは、脳内チップの除去のために手術を終え、病院の集中治療室で眠りについているはずのことを、ソフィーは知らなかった。 |