ルナの部屋のソファに座って、さっそくわたされた日記帳をひらいたクラウドは、ページの一面に、ただそれだけ書かれた文に注目した。

 

「プロメテウスの涙は、どれだけ大勢の涙があれば、止むのかしらね? それとも、たったひとりの、後悔の涙なのかしら」

 

 (プロメテウス)

 クラウドの心臓は跳ねた。彼は焦ったように顔を上げた。

 「ルナちゃん、これは?」

 

 「あ、うん、これはね、うさこがゆったの。――なんだか意味深だったから、それだけべつに書いといた」

 ルナは、ぽてりとクラウドの向かいに座り、言った。

 「プロメテウスって、ギリシャ神話のプロメテウスかな?」

 クラウドは、ルナも結構な本好きだったことを思い出した。

 「いや――このプロメテウスは、きっとそれじゃない」

 「だよね」

 ルナもうなずいた。

 「プロメテウスってゆったら、火だもんね。イメージ的に。じんるいに火をさずけた神様だから。じゃあ、涙ってなんだろう?」

 「さあ――」

 「ねえねえ、クラウド、マァトってなに?」

 「マァト?」

 日記帳を読みたいのだが、ルナが話しかけてくる。クラウドはしかたなく顔を上げた。

 「マァト――そっちは多分、地球時代のエジプト神話。マァトの羽は、魂の罪の重さをはかるんだ。天秤に、死者の心臓とマァトの羽を乗せて――」

 「うさこが、その天秤をつかってたのかな? 羽ばたきたい椋鳥さんの羽を、天秤に乗せて、“マァト”ってゆった」

 「え?」

 「羽ばたきたい椋鳥さんの羽は、すごく重たかったの。ものすごい音がして、お皿がかたむいたよ」

 クラウドは目を見張った。

 「ルナちゃん――そのこと、書いてある?」

 「うん」

 あわてて、ルナの記録へ目を落とした。そのときだった。

 インターフォンが鳴ったので、クラウドも反射的にドアのほうを見、ルナのうさ耳もぴーん! と立った。

 

 「だれかな? ゆうびんやさん?」

 ルナがたちどころに駈け出していく。廊下に出ると、つきあたりから、階下のリビングと玄関を見渡せるのだ。

 ルナはドアを開けっ放しで出ていき、廊下のはじでなにか叫んだ。クラウドには聞こえなかったが、ぱたぱたーっともどってきて、顔だけ部屋に突っ込むと、

 「クラウド! ロビンさんだよっ」

 そういって、通り過ぎて行った。

 「ロビンだって?」

 クラウドは、けっきょくルナの日記をほとんど読めずに部屋を出た。

 

 ほんとうに、ロビンだった。リビングにいたグレンが、彼を招き入れていた。

 「なんだ? めずらしいじゃねえか」

 キッチンにいたアズラエルも顔を出した。たしかに珍しいとクラウドも思った。

 バーベキュー・パーティーでもないのに、ロビンが来るなんて。

 エミリから、勝手に子ども時代の話を聞いたことで、文句でも言いに来たかとクラウドが思ったが、そうでもないらしい。

 

「アズラエル。ちょっと聞きてえことがあるんだが」

 リビングのソファに座り、妙に真面目な顔で、アズラエルが座るのを待っているロビンは、たしかに不気味だった。アズラエルは、ロビンの向かいに腰かけ、ロビンの言葉を待ったが、彼はなにもいわない。彼にしては、潔くない。口に出すことを、ためらっているように見えた。

――じつに、不気味極まりなかった。

 「……」

 「……」

沈黙に、アズラエルが耐え切れなくなってきたとき、セシルがちょうどいいタイミングで、紅茶を持ってきてくれた。

 

 「やあセシル。今日も綺麗だな」

 ロビンは、たとえどんな真面目な顔をしていてもロビンだった。セシルは肩をすくめてもどっていく。

「ベッタラなんかやめて、俺にしろよ」というロビンの余計なひとことには、

 「アンタよりは、百億倍もあのひとのほうが素敵だね」

 という言葉の平手打ちをかました。

 ロビンがロビンであったことに、多少の安堵をおぼえたアズラエルは、「聞きてえことって?」とあらためて尋ねた。

 仕事以外で、男に用などあるはずもないロビンである。

 

 「ン〜……」

 ロビンは、苦り切った顔で紅茶を口にした。セシルのいれた紅茶は、渋いわけでもなかった。すでに砂糖が入っている。苦いはずはなかった。コーヒーでもあるまいし。

 やがてロビンは、だいぶ重い口を開いた。

 

 「あの真砂名神社の階段ってのァ――なんなんだ?」

 「……」

 

 アズラエルは、用件がわかって拍子抜けした。あの話は、レオナたちの出産見舞いのときに、終わったと思っていた。ロビンがいつまでも、あの階段のことを気にかけているなどとは、思わなかったのだ。

 「あの階段は――」

 「なんだ、おまえ、まだ上がれねえのか」

 「上がれないのに、気になるわけ?」

 ロビンをいじめる機会ができて大喜びの、大人気ない大人二名――が紅茶を手に、ロビンを挟んで座った。

 前者はグレン、後者はクラウドである。だが、ロビンは今回、ふたりを相手にしなかった。目線は真向かい。アズラエルから動かないまま。

 

 「このあいだ行ったら、紅葉庵とかいう店のジジイが、俺に飴玉握らせて、帰れって言ったんだ」

 「あ? どういうことだ」

 「ナキジーちゃんが?」

 ミシェルが、その言葉を聞きつけて寄ってきた。

 「よお♪ ミシェル、あいかわらず最高のキュートさだぜ♪」

 ロビンは両手を広げて歓迎の意をしめしたが、ロビンの隣に、ミシェルのスペースはなかった。むくつけき男性が二名、封鎖している。

 

 「真面目に聞いてるの。――マジ? ナキジーちゃんが帰れって言ったの?」

 ミシェルの真剣な顔に、ロビンはふざけるのをやめた。

 「ああ」

 「……」

 ミシェルは、真砂名神社の川原でイシュマールと絵を描くことをはじめてから、商店街の面々ともしたしくなっていた。紅葉庵には、イシュマールとよくおやつを食べに行く。

 

 「そのときロビンは、階段の前にいたの? 自分からナキジーちゃんに話しかけたわけでもなく?」

 「ああ。俺は、階段の前っていうより――だいぶ離れたところにいたが。階段を見てたんだ。そうしたら、うしろから、その爺さんがやってきて……」

 「ナキジーちゃんが帰れっていうってことは、きっとなにか、意味があるんだよ」

 「意味?」

 ロビンは聞いたが、「ロビンは、あの階段、上がらないほうがいいよ」とミシェルはきっぱり言った。

 

 ロビンは自身でも、あの階段は自分には不要なものだと思ってきた。正確にいうと、ナキジーちゃんとかいう爺さんも、「おまえさんには必要ない」と言ったのだ。

 たしかに上がってみようと思っても、なかなか上がれなかったわけだが、とくにあの階段を上がらなければならないという理由も見当たらなかった。

 あの階段に出会ってから、自分はどうも様子がおかしい。階段は気になるし――おそらくそれは、ふつうの階段なのになぜか上がれないという――どうして自分だけが上がれないのだという疑問から来ているものだと思われる。

それに、子ども時代の夢など見るし。あげくに、自分が記憶喪失ではないかという疑いまで出てきた。

 とりあえず、階段の正体ぐらい、知っておくべきだと思ったわけである。

 なにしろ、どんなアクロバティック・コースか知らないが、アズラエルとグレンは、あの階段で満身創痍となったわけであるからして――。

 だが、ここではじめて、「あの階段は上がるな」という決定的な言葉が与えられた。

 



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