「ノワ、彼らは、これ以上近づかん。心配するな」 エーリヒがルナの背をさすった。そのとたん、グレンとアズラエルとセルゲイの胸中に飛来した感情――焼けつくような、嫉妬。 セルゲイの口から、別人の声がこぼれた。 「“いまいましい鳥め! 鳥の分際でわたしのノワを――羽根をむしって、今日の夕食にならべてやる!”」 エーリヒではなくノワが飛び上がり、今度こそ消えようとした。 アントニオがあわててセルゲイのみぞおちに一発――しずめた。 「すまん! 消えないでくれ、ノワ!」 「“……”」 ノワはいつでも逃げられるような体勢をし、疑い深い目で、アズラエルたちを見ている。だが、うしろのミシェルとエミリに気付いて、満面の笑顔になった。 「ルナ、いったいどうしちゃったの!?」 ミシェルも、親友の変貌ぶりに呆れるほかなかったが、とうとつに思い出した。 ミシェルとエミリを笑顔で手招いている酔っぱらいのオッサンは、この階段で、アストロスの神をよみがえらせる儀式をしたとき、アズラエルたちが階段を上がるのを手伝った、ルナの前世のひとりだ。イシュメルの後に出て来た――。 ルナに重なるオッサンは、ミシェルとエミリを手招きし、来ないのが分かると、首をかしげて悩むしぐさをして、やがてひらめいたように手を打ち――パチリと指を鳴らした。 すると、ケーキやら花束やら、ワインやら、たくさんの菓子がずらりと、ミシェルのめのまえに並んだではないか。 「ええっ!?」 ミシェルが、ララからもらった最高級のケーキやワイン、マカロンのつつみだ。 エミリが呆然として、ケーキのクリームをつついた。指の着いたそれを舐めると、たしかに――本物だった。 「あなた、」 エミリがノワのほうに歩もうとしたのを、なぜかグレンが遮った。 「“――ノワ”」 グレンがうっとりとノワを見つめている。ノワの全身が動物のようにぶるぶるっと震えた。 「“俺の可愛いノワ――年をとっても素敵だ。そのつぶらな瞳、甘いくちびる、華奢な身体――”」 グレンが形容しているのは自分と同じ体格ほどのオッサンの姿である。 「“こんどこそ、俺のそばにいてくれ。ノワ、ぜったいに離さない――”」 ついにアズラエルまでイカレた。ノワは彼らを指さし――なにか怒鳴った。 「なんて言ってる?」 クラウドがイカレたアズラエルを、アントニオがグレンの後頭部を殴って卒倒させてから、聞いた。 「俺に何とかしてほしかったら、そのヘンタイどもを、俺の視界から消せ」 エーリヒが淡々と、訳した。 ――ノワが半透明からすっかり姿を現したのは、アズラエルとグレンとセルゲイが、ルナとおなじようにロープでぐるぐる巻きにされて、ノワからだいぶ離れた奥殿に放置されてからだった。 「君は――ノワ、なのか?」 クラウドが代表して尋ねた。 「あの、“LUNA NOVA”?」 ノワはその質問には答えなかったが、否定もしなかった。エミリとミシェルと酒を両手に、上機嫌だった。 ノワは折に触れて口を動かすのだが、その言葉はだれにも聞こえない。それを、ノワも分かっているようだった。ノワの言葉が聞こえるのは、エーリヒだけだ。 ノワの正体は、謎である。あちこちに出没しているわりには、姿を残した絵画や写真もないし、どんな人物だったのか、具体的な記録はいっさい残っていない。彼のしでかした、すばらしい足跡が残っているだけである。 こうして本物を見ると、ペリドットに雰囲気が似ている気もするし、ルナの面影もあった。若いころは、美少年だったかもしれない。だが、さきほどのグレンの形容詞は、どんなにフィルターをかけてみたところで、今クラウドたちが見ている実像とは違った。前世のグレンの視力がおかしかったというほかない。 エーリヒは、つぎつぎと瓶を空にするノワに、ふたを開けた瓶を手渡していたのだが――。 急に、エーリヒの顔に緊張が走った。 「……ノワ、それはいったいどこに?」 エーリヒの無表情が、すこしくずれた。彼はおどろき、なにかいいこと聞いたかのように、高揚していた。ノワはルナの口を借りて、にやりと笑った。 「エーリヒ、彼は今なんていったんだ?」 クラウドが焦り顔で聞いた。エーリヒは、ルナのほうを見つめたまま、ノワの言葉を繰り返した。 「第一次バブロスカ革命の記録が、あるそうだ」 「――!?」 クラウドは驚愕したが、おどろきに浸っている場合ではなかった。 「ノワ――」 「待ちたまえ」 エーリヒがさえぎった。ノワがまたなにか言っている。 「ロビンは、プロメテウスであり、エピメテウスである」 「――エピメテウス!?」 クラウドは、なぜ気づかなかったんだという顔をした。 ピトスにエルピス、「プラン・パンドラ」――。すべてがギリシャ神話のプロメテウスにまつわる名称だ。 ロビンの名は、プロメテウスの弟である、エピメテウスだったのか? ふたたび、エーリヒの喉が鳴った。 「第一次バブロスカ革命のプロメテウスとエピメテウスは――姉妹だ」 ノワはふたたびにやりと笑い、酒瓶を掲げた。酒の礼だと言っているようだった。 今度こそ消えようとしたノワに、「待って!」とエミリが叫んだ。 「おねがい! ノワ、ロビンを助けて!」 ノワは美女の涙に困った顔をしたが、苦笑して酒を呷ると、両手を広げて言った。 今度の言葉は、拝殿にいた皆に聞こえた。 「“悪いな。俺はめんどうくさいことが、なによりも嫌いなんだ”」 ノワは消えた。 クラウドは、それがロビンの口癖と同じだということに気付いた。 「なんですって、一億?」 カーダマーヴァ村はすっかり雪に埋もれていた。次の日の朝、ケヴィンたちは水分の多い、かたい新雪を踏みしめて、門まで向かった。そこにはカザマが白い息を吐いて、待っていた。双子は、昨夜マクタバに言われたことを説明した。 「パズルって占術は高いんだって……俺たち、ふっかけられたわけでもないみたいです」 サルディオーネがする占術は、それぞれのサルディオーネたちが生み出した、いままでにない特別な占いで、かくじつに人生を変えられるものだから、それだけの値がするというのである。 カザマも肯定した。 「……マクタバさんのおっしゃることは間違っていません、ですが……」 「でも、俺たち、そんな金、持ってませんし! カザマさん、そういうのって、地球行き宇宙船から出るんですか?」 「いいえ――それは、」 カザマも悩むように言い淀んでいると、マクタバが上機嫌でやってきた。 「一億なんて、破格だよ! ふつうは五億くらいかかる。まァ、長老会だのなんだの、間をとりもつ人間がたくさんいるから、サルディオーネ本人に入る金額は、ものすごく少ないけどね」 マクタバの言うことは間違ってはいなかった。水盆の占術も、宇宙儀の占術も、それくらいはする。 アンジェリカが特別なのだ。彼女の占術は、三十分、数千万デルから受けられる。 彼女が顧問となっている政治家や、富裕層の連中は、時間延長とともに勝手に金を積み上げるが、それらはすべて長老会のふところに入っていた。 数千万まで落とすから、アンジェリカにはいる額面は、地球行き宇宙船でもらえる一般船客の報酬とかわらない30万デルほど。 ララくらいだ。正式な額とは別に、「こづかい」と銘打ってアンジェリカに直接金をわたすのは。 だがカザマは、いまここで、アンジェリカの話を持ち出さなかった。 マクタバが、アンジェリカをライバル視しているのは、新聞のインタビュー記事で分かっていたからだ。 |