その夢は、かなうかに思われた。 彼女が40歳になったある日、ロナウド家から、名誉ある話が持ち込まれた。 ロナウド家の後押しで、将校にならないかという話だった。将校となれば、アンがのぞむ活動を、もっとおおぜいの協力者を得て、することができる。 傭兵の身で、将校となったものはかつていない。 アンがその先駆者となるのだという説得によって――驚くべきことに、彼女の軍入りを後押しするのは、少数ではなかったのだ――しかし、アンは、断った。 (中略) アンは辞退したが、彼女を将校に押す申請があったということは、すぐドーソンの耳にも入った。 アンは、将校にもファンが多い有名歌手であった。彼女が軍部にはいれば、傭兵の発言権がつよくなる恐れがある――傭兵差別主義者にとっては、とうてい許されることではなかった。 アンは、「第三次バブロスカ革命のユリオンの近親者」という、まるで見当違いの罪で逮捕された。 アンは傭兵である。貴族軍人であるユリオンとは何のかかわりもない。だが、彼女は極秘裏に逮捕され、銃殺された。 あっという間のできごとだった。 アンの銃殺刑に、軍事惑星群は騒然とした。一部で抗議の暴動も起きたが、すぐに鎮圧された。―― ルナは、ここまで一気に読みきって、ふかくため息をついた。 大広間のリビングで、ルナはアンのアルバムをかけながら、「バブロスカ 〜エリックへの追悼にかえて〜」の、アンドレア事件の部分だけを読んでいた。 空挺師団の事件におおくページを割いているのにくらべ、アンドレア事件は、ほんの数ページだった。 (アンドレアさんは、ドーナツが好きだったのです……) アンがつくった揚げたてのドーナツが、子どもたちは大好きで、揚げたそばから食べてしまう。 殺伐とした本文の中で、ゆいいつ、幸せを感じさせるエピソードだった。 「この本には、ラ・ヴィ・アン・ローズのその後が、書かれてない……」 アンが銃殺刑になって、アンの傭兵グループのメンバーはどうなったのだろうか。いっしょにつかまってしまったのだろうか。子どもたちは、どうなったのだろう。 “愛すべきわたしの子どもたち。今日もいっしょにドーナツを揚げるの” 「虹色ドーナツ」という曲の歌詞だ。 ルナが読んでいるあいだ、アルバムは2回リピートされた。「アイアン・ハート」と「バラ色の蝶々」以外は、哀愁ただようメロディで、アンドレアの波乱万丈な人生にぴったりだった。 「虹色ドーナツ」も、歌詞はほのぼのとしているのに、曲調はさみしい。 (あれ?) ルナは気づいた。本を読み返す。アンが子どもたちを引き取りはじめたのは、歌手活動をやめてからで、――つまり、傭兵グループをつくってからだ。 「虹色ドーナツ」を歌っていたころは、歌詞のもとになるエピソードは現実化していない。 (これは、アンの夢だったのかな……) L55に行けなくなってしまったアンの、もうひとつの夢。 (でも、この夢は、実現できたんだ) ドーナツのエピソードは、一時期、アンの屋敷にいたことがある傭兵の証言だ。アンがつくってくれたドーナツが美味しかったのだと。仲間と奪い合うようにして食べたそれが美味しくて、幸せで、忘れられないと。 アンに、実子はいない。そもそも、彼女はだれとも結婚していない。将校や傭兵、あらゆる政界の大物とも恋をしながら、彼女はついに、結婚することはなかった。「ラ・ヴィ・アン・ローズ」のなかにも、パートナーはいたらしいが、結婚はしていなかった。 (ルーシー) ルナはなぜか、ルーシーを思い出した。ルーシーも生涯、実の子を持つことはできなかった。だから、ビアードを実子のように愛したのだ。 (ルーシーは、子どもがほしかっただろうか) パーヴェルとの子を? アイザックとアロンゾはともかくとしても、パーヴェルとの子を望みはしなかったのだろうか。 それとも――いつラグ・ヴァーダの武神との対決があるか分からなくて、生めなかったのだろうか。 (……) ルナはめずらしく真剣な顔で考えたが、自分の前世であるはずなのに、ルーシーの気持ちはさっぱりわからなかった。 「これって、アンの曲じゃないかい?」 「あ、おかえりなさい」 レオナとセシルが、買い物から帰ってきた。大広間に流れている曲に、ふたりはすぐ気づいたようだ。 「やっぱりふたりも知ってるんだ」 ルナが言うと、「もちろん!」とレオナがうなずいた。 「どうしたの、アンの曲なんて――ルナちゃん、好きだった?」 セシルが聞いた。ルナは、 「今日、はじめてアンのことを知ったの。さっき、デレクにCDを借りたよ」 「懐かしいなあ……軍事惑星じゃ、よく流れてたよ」 セシルが、ルナからCDケースを受け取って、熱心に見つめた。 「“虹色ドーナツ”とか、好きだな」 (ドーナツ……) ルナは決意した。 (今日のおやつは、ドーナツにします) 「ただいま! 今日のおやつなに? ――あれ? これ、アイアン・ハート?」 ミシェルも真砂名神社から帰ってきて、ルナと同じことを言った。 「ミンシィじゃない」 「ちがうちがう。コイツはアンの曲さ」 「だれ? だれか新しくカバーしたの?」 ミシェルとレオナ、セシルの間で、聞き覚えのある会話がくりかえされた。 (そろそろピエトやネイシャちゃんも帰ってくるころだし――アンの真似をして、ドーナツを揚げます) 今日は日曜日。三時も過ぎて、屋敷内にはだいぶひとがいる。 セシルとレオナに、エーリヒにセルゲイ、ミシェルもはやく帰ってきたし、アズラエルも自室にいた。ふたりの子どもが帰って来れば、おやつおやつと騒ぎだすだろう。 (今夜はニックとベッタラさんも遊びに来るってゆってたし――夕飯は、どうせお酒のおつまみになっちゃうから――バーガスさんといっしょにつくることにして――子どもの分はカレーとか――) ルナが夕食のメニューを考えていると、「虹色ドーナツ」の歌詞で盛り上がっていた女三人の目が、ルナに向いていた。 |