百五十八話 バラ色の蝶々 V



 

 アンが屋敷に姿を見せたのは、それから三日後だった。

 「こんにちは」

 玄関に立っているアンは、ルナがこのあいだ海辺で歌っている姿を見たときとちがい、ふつうの、上品で、小柄なおばあさんだった。

 「こんにちは。アンドレア・F・ボートンと言います。お世話になります」

 「こんにちは! こ、こっちこそよろしくです、ルナです!」

 「あなたが、ルナさん」

 アンドレアはふんわりと笑顔を見せた。

 「チケットを、どうもありがとうございます」

 そして、頭が床に着くぐらい、深く頭を下げた。

 「い、いえ――」

 アンはふと、ルナの顔を見て、手を打った。

 「もしかしてあなた――海岸でお会いになった、お嬢さん?」

 「はい! そうです!」

 「まあ――奇遇ねえ。あのときのお嬢さんが、」

 「アン、荷物はこれだけか」

 オルティスが、古びたトランクを持って、タクシーから降りてきた。

 「そうよ。家具なんかは、備え付けがあるってうかがって――ホントに、なにも持たずに来てしまったわ。よろしいのかしら」

 「平気ですよ。どの部屋にも、すぐひとが入れるようにしてあるんです」

 セルゲイは、アンをエスコートして、リビングに通した。

 

 「まあ……!」

 アンは、リビングの高い天井を見上げて、驚きの声を発した。

 「この家にゃァ、お医者さんもいるし、いつもひとがいるから、安心だ」

 オルティスのほうがほっとした顔をしている。

 「お医者様までいらっしゃるの」

 「コイツだ」

 指名されたセルゲイは、苦笑した。

 「まあ、あなた、お医者様」

 「ええ。休業中ですが、いちおう外科医の免許を持っています」

 

 「アン! ――あの、アンさん、会えて光栄だわ」

 「わたし、ファンなの……!」

 セシルとレオナ、エマルとリンファンが、感激をかくせないように、アンと握手を交わした。

 「まあまあ――こんなお若い方々で、わたしのファンだなんて、嬉しいわ、じゃあ、一曲――」

 

 突然、アンは、歌いだした。

 録音された音楽とは比べ物にならないゆたかな声量、あじわいのある歌声――高い天井のリビングが、まるで急ごしらえのコンサートホールになったようだった。

 

 ルナもミシェルも、口をぽっかりと開けて見つめた――。

 本物の、アンだった。

ルナが海辺で聞いた声と同じ。

 マイクも必要としない、この小柄なからだのどこから出てくるのかわからない、膨らむような声音――代表曲、「バラ色の蝶々」が終わるまで、皆が聞きほれた。

 余韻を残しながら、一幕は終わり、アンがにこりと微笑んで礼をすると、いっせいに拍手が起こった。

 

 「はわあ……!」

 「やば……ナニコレ涙出て来た」

 ミシェルも、感動して目を潤ませていた。

 盛大な拍手が鳴りやまない。バーガスもキッチンから顔を出して口笛を吹き、アズラエルも、グレンも、「最高だ」と手を打ち鳴らした。

 「すばらしい! すばらしい!!」

 エーリヒも、無表情で大きな拍手をしていた。

 「アンの、生歌が聞けるなんて……」

 生きていてよかったという顔で、セシルがおさまらない涙をふく。

 

 「これは、ルーム・シェアの記念に……」

 相変わらずのエーリヒが、アンの顔がすっかり見えなくなるほどの、大輪のバラの花束をわたすと、「嬉しいわ」と顔をほころばせた。

 「なんて見事なバラでしょう――何年ぶりかしら」

 アンは、目を潤ませて薔薇の香をかいだ。

 「すばらしい歌声でした――俺は、クラウドと言います」

 クラウドがアンの手を取り、

 「屋敷の案内と、みんなの紹介をしたい。いいですか」

 「もちろんよ」

 

 

 「思ったより、元気だ」

アンの部屋となる一室に、ちいさなトランクを運び終わり、オルティスを誘ってリビングのソファにすわったアズラエルは言った。

「もっと病人の顔をしていると思ったが」

 

生活必需品の足りないものを買いに行くのに、セルゲイが車を出して、アンをちかくのショッピングモールに連れて行った。

アズラエルの言葉どおり、末期ガンの患者にしては、アンは元気そうだった。痩せてはいるが、病気だと言われなければ分からないくらい、歌声はすばらしかったし、顔色もわるくない。

対照的に、オルティスは、元気が出たとはいいがたい顔だった。無理もない。

 

「俺も、このあいだ話を聞いたばかりで、くわしいことは。余命三ヶ月ってのは、さすがに脅されたんだろうと中央病院の医者は言ったが、まともに治療しなけりゃ、たしかにダメだったかもしれねえ。どうも、進行性のガンだから、はやく入院しないとまずいってことだったらしい」

「でも、金がなくて、入院できなかった?」

「――そうかもしれねえ」

オルティスは、ますますしずんだ顔をした。

 「E353では、マルセルもアンも、いい仕事にゃつけなかった。かくれて暮らしていたからな――給料が安くて、過酷なとこばかり。アンは身体を壊しがちだったし、おまけに、素性を探られそうになったら逃げるのを繰り返していた」

 「逃げながら生活するのは、それだけで神経が参りそうになる」

 経験者であるアズラエルは、かつての生活を思い出して、ふかく嘆息した。

「宇宙船に乗れたから、アンは助かるかもしれねえ。――ルナちゃんは?」

 「たぶん、部屋にいる」

 アズラエルが立ち上がってルナを呼ぼうとしたのを、オルティスはあわててさえぎった。

 「ああ、いいんだ呼ばなくて――俺は、ルナちゃんに足を向けて寝られねえよ」

 「気にするな。アイツに礼なんかいうなよ」

 「どうして」

 「……きっとまた、自分がやったんじゃないとか言って、ヘコむから」

 「……?」

 オルティスは、理解できない顔でしばらく停止したが、やがて、言った。

 

 「おまえらには悪いが、やっぱりアンはここに置いてくれ」

 「それは、かまわねえよ」

 「俺は、このたった三日かそこらで、アンの顔を見りゃマルセルのことを思い出して、どうも涙腺が緩むんだ。やっぱり、しばらく離れていたほうがいい」

 「そうか……」

 「ラガーのほうは、客には悪いが、しばらく夜だけの営業にするよ」

 「……」

 「マルセルのことだけどな」

 オルティスは、分厚い肩を、落ち着かなげに揺らした。

「マルセルは、リリザのほうへ行って仕事をするから、しばらくは連絡がとれねえといったら、納得してくれたよ。アンは、自分のために、マルセルがまともな職に着けねえことをいつも悔やんでいたからな。マルセルひとりになれば、病気の婆さんを抱えて生活することもねえし、逃亡生活なんてしなくてよくなる。そういって、さみしいが、気持ちを切り替えた。あのひとは――それができるひとだ」

 



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