百五十九話 ルナの決意と、黄金の天秤



 

食事もすっかり終わったところだったし、十一時も過ぎていたので、子どもたちは入浴して歯をみがき、就寝するように、セシルに言いつけられた。

オルティスは、「いきなり泣き出しちまって、悪かった」としきりに言ったが、だれも責めるものはいなかった。この屋敷に、かなしみを理解しない人間はひとりもいない。

場はしらけてなどいなかった。アンの歌が終わったとたんに盛大な拍手が上がり、みんなは、おいしいケーキを口にした。

アンの声のように、甘いケーキだった。

 

「河岸を変えて一杯やろうぜ」

バーガスは、オルティスとアズラエル、そしてアンの担当役員のテオと、マタドール・カフェに向かうことにした。

アンは、ツキヨが自室へ連れて行った。

カルパナとシシーに、残った料理をたっぷり手土産に持たせ、おとなたちは片付けにとりかかった。

準備をはじめたときと同様、ひともたくさんいたので、片づけはすぐにすんだ。

 

男たちは、今夜は自室のシャワーで済ませると言った。それぞれの部屋に、シャワーと小さなバスタブはついている。だが、大浴場があるので、あまりつかわれていなかった。

ルナは、ミシェルとリンファン、エマルとレオナ、セシル、ネイシャ、ジュリと一緒に、なだれこむように大浴場に入った。

大勢で入っても余裕がある大浴場は、リンファンとエマルも気に入り、「まるで温泉みたいだねえ」と幸せそうだった。

 

「ほんとに、温泉のお湯を、引いてるそうなの。お風呂だけだけど」

セシルが言うと、ミシェルが「マジで!?」とさけんだ。

「ミシェルちゃん、知らなかったの。この家に入ったとき、カザマさんがそう言ってたじゃない」

「美肌の湯だって」

レオナが言うと、

「ほんとかい!? じゃあ、定期的に入りに来なきゃ!」

エマルは、豪快に、ざっぱざっぱと顔に湯を浴びた。

 

「エマルとリンさんは、――ツキヨさんも、ほんとに、この屋敷には住まないのかい」

レオナが残念そうに言った。ルナは顎までつかって、アホ面だけを水面に出して天井をながめていたが、その言葉を聞いて、母とエマルのほうを見た。

「アズが嫌がるだろ、あたしと一緒は」

アイツは年中反抗期だからね、とエマルは笑い、

「それに、母ちゃんも入退院をくりかえすことになりそうだ――シャインもあることはあるけど、あれはあんまり大っぴらにはつかうなって言われてるんだろ?」

「……」

ルナとミシェルが、ぶくぶくと泡を吹きながら目の下までお湯に浸かったのを見て、エマルはいたずらっぽくウィンクした。

「病院の近くにアパートを借りることにしたよ。落ち着いたら、遊びに来てよ」

 

長風呂から出て、ルナが髪を乾かしているあいだに、脱衣所はルナだけになっていた。ルナはキッチンではちみつ入りのホット・ミルクをつくった。すっかり日付変更線はまたいでいたが、目がさえて、眠れなかったのだ。それを飲みながら、ぼんやりと、ひろいダイニング・キッチンをながめた。

ミルクを飲み終わり、大広間とみんなで呼んでいる、リビングに出た。

ルナは高い天井と、リビングから見渡せる、二階と三階の廊下を見つめた。

 

(セルゲイは、この旅行が終わったら、カレンのところへもどる。――グレンは? グレンは、地球に住むのだろうか。バーガスさんとレオナさんは、きっとL18にもどるんだろう。――エーリヒも。そしてジュリさんは、エーリヒといっしょに行く)

セシルとネイシャも、ベッタラとともに、彼の故郷に行く。

ルナは、クラウドとミシェルですら、例外はないというのに気付いてしまった。

(クラウドには、ララさんから、秘書にならないかって話が来てる)

ミシェルも――ララのもとで、有名な画家に、なるのかもしれない。

ルナは、なんとなく、別れのときを想像してしまった。

(いつまでも、みんな一緒じゃ、ない)

 

ルナはとぼとぼ、三階の自分の部屋にもどろうとした――部屋にもどろうとしただけだ。聞く気など、これっぽっちもなかった。けれども、ルナの部屋は、ツキヨとアンに提供した部屋の隣――自室にはいるまえに、通り過ぎなければならない。

ドアの向こうから漏れ聞こえた会話に、ルナは足を止めてしまった。

 

「こんな母親がいるものですか」

アンの声は、潤んでいた。

「子どもたちを、みんな犠牲にして、生きながらえた母親なんて、いやしない」

「……まだ、オルティスさんがいらっしゃるじゃないか」

ドアは、ほんの少しのすきまを残して、開いていた。ツキヨが、アンの細い肩をさすっているのが、ルナにも見えた。アンは、やはり泣いていたのだ。

「子どもたちに幸せになってもらいたくて引き取ったのに、わたしは、みんな死なせてしまった」

ツキヨは黙って聞いていた。アンの震える背を撫でさすって。

「マルセルはきっと、死んだのね」

ルナはどきりとした。

「オルティスは――あの子は――わたしにそれを、言えなくて、ひとりで抱え込んでいる」

「……」

「なんて残酷な母親でしょう! 長年支えてくれた息子を犠牲にして、――こんな、」

アンの慟哭は、もはや言葉にならなかった。

「アンさん――生き残った者には、やらねばならないことが、きっとあるのよ」

 

ツキヨの、優しい声を聞きながら、ルナは逃げるように自室に駆け込んだ。しっかりとドアを閉め、ぺたりと絨毯にしゃがみこんだ。泣きそうな気もしたが、涙が出てこなかった。悲しいわけではないのだった。――いや、悲しい――悲しいけれど、それだけではない、奇妙な気分だった。

みんなとの、いつか来る別れを想像したら、奇妙な気分になったのだった。

 

(ケヴィンも、ナターシャも、エレナさんも、カレンも、あたしは見送った)

もうすぐ、レイチェルたちとの別れが来る。

ルナは、クローゼットを開け、なんの反応もない銀色の箱をとりだし、絨毯に置いた。

 



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