その夜、ウィルキンソン邸宅に現れたのは、ミラだった。フライヤは、まだ帰宅していなかった。陸軍本部に残って、アストロスに出航するための準備をしていた。

 「エルドリウスは帰っているか」

 「ま、まあ――! ミラ様!」

 L20首相の突然の訪問に、腰を抜かしかけたのはシルビアだった。

 「アポなしの訪問で申し訳ない――だが、今日はエルドリウスが帰るということを聞きつけてな」

 「妻に、たいそうな任務が与えられたとなってはね。仕事なんかしてる場合じゃない」

 屋敷の奥からすがたを現したエルドリウスは、軍服姿だった。

 

 ミラはリビングに通され、熱い紅茶と、きれいに並べられたサンドイッチをひとつ、いただいてからつぶやいた。

 「このサンドイッチ、おいしいね。きゅうりが挟んである王道なのに、どうしてこんなにおいしんだろ? いつもながら、シルビアの手料理はおいしいものばかり」

 「喜んで、すぐ調子に乗るぞ」

熱い紅茶は、すぐに、エルドリウスが持ち出したウィスキーにとってかわられた。

 今夜は、長い夜になりそうだとミラは感じた。

 

 「あなたが年若の妻をむかえたと聞いたときは、仰天したが、いやはや――」

 ミラは、感動を込めて、ふかく嘆息した。

 「まさか、L20の救世主になるとはね」

 あなたの慧眼を見誤っていたようだ、とミラは詫びた。

 

 「まだ、救世主になると決まったわけじゃないさ。しかし、地球行き宇宙船にはわたしの息子も乗っている。そして、アストロスに我が妻が向かうことを考えると、なにやら因縁を感じざるを得ない」

 「セルゲイか――彼にも、ずいぶん迷惑をかけた」

 ミラは遠い目をした。エルドリウスには、彼女がずいぶん、老けた気がした。

 アミザが起こした騒動――マッケラン重臣の更迭――メルヴァの捜索――ミラの背に乗る重圧はあまりにも大きい。

 

 ふと、ミラは言った。

 「カレンは、なにを思ったか、セルゲイを宇宙船に置いてきた――てっきりいっしょに帰ってくるものと思ったら、」

 「もしかして、セルゲイには、思う人ができたのかもしれない」

 「思う人? 宇宙船に?」

 エルドリウスの思わせぶりな台詞に、ミラは目を丸くした。

 「だったらカレンは振られちまったということかい――いや、そのわりには、元気だったな」

 「カレンがセルゲイを振ったのかも」

 「それはないだろう。あんな完璧な男を」

 

 互いに笑いあい――エルドリウスは、グラスの中の氷をもてあそびながら、嘆息交じりにつぶやいた。

 「今日、L19の軍部にも報告があった――アストロスで、メルヴァの軍勢とみられる組織を発見したと。メルヴァ本人、そして側近のシェハザールとツァオの存在は見つかっていないが、メルヴァがアストロスにいることははっきりした」

 「そうだ――そしてわたしは、フライヤを、メルヴァ討伐の総司令官にした」

 「そう。“メルフェスカ”の名で――」

 エルドリウスは、グラスをテーブルに置くと、嘆息した。

 

 「実のところ、わたしは困惑している」

 顔は涼しかったが、顔は苦渋に満ちている気が、ミラにはした。

 「わたしも望んでいたことなんだ。いつか、フライヤが傭兵としての名を持って、軍の中核に立つ――だが、いざそのときが来てみると、早すぎる気もするし、怖いような気もする」

 これが身内びいきというやつかね、とエルドリウスは苦笑した。

 ミラは、エルドリウスの決断力を評価していた。この男は英断し、後悔するということがない。だが、フライヤのことでは多少の戸惑いも見せるようだ。

 「あなたも迷うことがあるのだな。これでますます好きになった」

 エルドリウスは困り顔で肩をすくめた。

 「迷いは、すくないほうがいいに決まっている。自分に関してはね」

 

 「フライヤも怖がっていた」

 ミラは、昼間の様子を思い出して苦笑した。だがすぐ、真顔にもどった。

 「フライヤは、ここに来るまで、多くの自信を身に着けて来たし、信頼に足る友人も得て来た。――わたしは、早いとは思わん」

 物ごとには時期がある、と彼女は言った。

 「ところで、ユージィンが姿を消したそうだな」

 

 ややあって、エルドリウスはうなずいた。ミラが、フライヤを、傭兵の名で総司令官にする――その策をとりあげた理由が分かったからだ。

 「ユージィンはL19の監獄から消えた。だれが手引きしたのか――ロナウド家は躍起になって、彼を捜している」

 「だとすれば、ロナウドが秘密裏にユージィンを消したわけではない、」

 「さすがにそれはすまい。ユージィンの身柄は、裁判に必要だ」

 ドーソン最後の屋台骨であるユージィンの消息が消えた。それはとてもおおきなことだった。

 すくなくとも、ミラは、この事態がなければ、フライヤを傭兵の名で総司令官にしようなどとは、夢にも思わなかっただろう。

 

 エルドリウスはつづけた。

 「監獄星のドーソン一族に、動揺が広がっている――かつてない、おおきな動揺だ。なにがあろうとも冷静さを保っていた者たちが、急に焦りだした。病気にかかる者まで現れたそうだ。――宿老たちがユージィンにかけていた期待は、よほどおおきなものだったのだろう。彼がいれば、きっとL18にもどれると」

 「……」

 「ユージィンが逮捕されたときでさえ、彼らは揺らがなかったのに」

 「行き先は? 把握を?」

 「L22に向かったか、それとも独自のルートをつかってL55へ渡ったか――どちらにせよ、まだ見つからない」

 「L22ね……アーズガルドのピーターは、彼をかくまうか? それとも、ロナウドに突き出すか」

 エルドリウスは苦笑した。

 「さあ――わからん。だが、あの子は、“こちら側”の人間だ」

 「サイラスは、一族とドーソンにつぶされたがな……」

 ミラはひどく悔やむ顔をした。

 「もったいない男を亡くした。……ピーターでは、これからの難局を乗り切っていけるかどうか」

 「そう心配することでもないと思うが」

 エルドリウスは眉を上げた。

 「ピーターの器は、おそらくサイラス以上とわたしは見たが」

 「……? ピーターが?」

 

 ミラの頭には、どう考えてもフライヤより頼りなさそうな、マザコン男の顔が浮かんだ。人は好いが、ママなしではなにもできない跡取り息子。実の母親ははやくに亡くなっているが、周囲を固める、ヨンセン率いるやり手の秘書陣――陰でピーターのママ軍団といわれている――は有名だ。

アーズガルドが持っているのは、あの秘書陣のおかげともいえる。

 

 「そうは思わんね。決定を下しているのは、ああ見えて、ピーターだよ、ミラ」

 「――!」

 「恐ろしい男だよ、彼は。わたしはそう思う。――これは単なるうわさではあるのだが、ピーターは、女性を愛せないそうだ」

 「めずらしくもない」

 ジェンダーの境が崩壊した昨今、とくにL20では、めずらしくはない。ミラは、エルドリウスが何を言おうとしているのか分からなかった。

 「彼はね、周囲の女性を、みな“ママ”にしてしまうのだそうだ」

 

 「――は?」

 ミラは間抜けな声をあげ、それから納得した。あの頼りなさでは、彼の周囲につどう女は、そうなってしまうかもしれない。

 



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