ピーターと暮らし始めてまもなくのころだった。 夜中にピーターの叫び声がしたので部屋に駆け付け、ドアを全開にする前に――ヨンセンがひとさしゆびを唇のまえに立てた。 「見るな」の合図を、オルドは受け取った。 色っぽい透ける生地の、下着姿のヨンセンは、ピーターを膝に抱いてあやしていた。 「ママ、こわい、たすけて、こわい、こわい……」 ヨンセンの膝にすがりついて、ピーターは震えていた。 オルドはだまって自分の寝室にもどったが、見たことを悔やんだ。 (まだ、治ってねえのか……) ピーターは、昔から、ひとりでは眠れなかった。だからいつも、オルドがいっしょに寝た。オルドがピーターを放っておけないのは、そこにも起因していると思う。ピーターはふたつ上の兄のようなものだったのに、オルドがいなければ、眠ることさえできなかったのだから。 オルドがいないと、いつもうなされて飛び起き、泣く。きっとピーターは、昔から、まともに眠れたためしなど、ないのではないか。 (ピーターの母親は、たしか、ピーターが6歳ころに亡くなっていた――父親も) オルドは4歳だ。4歳の記憶では、あまりにもたよりない。 トラウマでも持っているのか。――ピーターのトラウマとは? (俺は、ピーターのことを知っているようで、なにも知らねえ) オルドは、翌日、ヨンセンから驚くべきことを聞いた。 ピーターは毎夜、四人の秘書たちが交代で添い寝につくが、一度だって肉体関係になったことはない。ピーターはママなしでは眠れないだけだ。 秘書がいないときにうなされることも何度もあったが、ヨンセンは、「ぜったいに行くな」と告げた。 「いまは、ふたりとも子どもじゃないのよ。処女のままでいたかったら、放っとくことね」 女を殴れないオルドは、怒りのやり場を見失って、壁を殴るしかなかった。 オルドは、ヨンセンがピーターの恋人だと思っていた。それを告げると、彼女はさすがのオルドもひるむような顔で平手打ちをした。 ここにきてから、何回、このおそろしい姑に平手打ちされたことだろう。 「わたしたち、一度だって、ピーター様に抱かれたことなんてないのよ」 ヨンセンの気丈な声が震えていた。 「どんなに誘惑しても、好きにしていいといっても、わたしたちはママにしかなれないの。それがどんな残酷なことか、あなたには分かる?」 オルドに分かるはずもなかった。オルドは、だれに対しても、そんなに激しい感情を持ったことがない。 「あなたが羨ましいわ。ピーター様が、欲しがることのできる、ゆいいつの、あなたの身体が」 オルドはそれ以上言わなかった。 抱くのか抱かれるのか知らないが、ピーターとそういう関係になる気はなかったし、恋愛沙汰で争うのはこじれるだけだと思っていたからだ。 (参ったな) オルドがピーターとそういう関係にならないから、いつまでも信用されないのか。だが、オルドの能力は買われているし、ヨンセンを筆頭に、古株の四人には嫉妬されているかもしれないが、表面上は、オルドはうとまれていない。 与えられた自由を糧に、自分なりに、ピーターのために動くしかない。 オルドはそう思っていた。――今日までは。 その日、秘書室の面々は、それぞれの仕事で外出していた。本社のビルのべつの課で、与えられた仕事に出向いていたオルドに、いきなり社長室にいるピーターから呼び出しがかかった。 ピーターは今日の午後から、長期出張に出るはずだった。期間は二ヶ月弱。行き先は、L55と聞いていた。 (なにか不備があったか) 今日はヨンセンもいない。ビルに残っていたオルドは急いで部屋にもどった。 「どうかしたか、ピーター」 ピーターしかいない部屋だったので、うかつにも、軽い口調で呼びかけてしまった。ピーターはもちろん、それを咎めることはしない。 ピーターはいつもどおり笑顔だったが、すこし沈んでいる気がした。 「オルド」 ピーターは改まって、オルドに聞いた。 「――アイゼンに、なにか言われた?」 「!」 アイゼンの、意味深な、あの言葉のことだろうか。でも、なぜいまさら、そのことを? 「俺がアイツと昔、会ったことがあるって、そのことか?」 「それだけ?」 「ああ。アイツは俺のもとの名も知っていたし、傭兵にもどすとかなんとか――いったいなんなんだ?」 オルドは、ピーターに、「俺は昔アイツと会ったことがあるのか」と聞きかけて、口をつぐんだ。ピーターは質問を拒絶していた。彼は首を振り、立った。そして、オルドとは反対側の窓ガラスのほうへ寄り、なにも見ず、うつむいたまま言った。 「アイゼンの言葉に惑わされちゃダメだ。――アイツは、おまえを利用しようとしてる」 「利用?」 「オルド、誓ってくれ。俺の言葉しか信用しないって。俺のいうこと以外は、無視するって」 「それは、俺が判断する」 さすがにオルドはそう言った。なんでもかんでも、ピーターの言葉を肯定するために、ここまで来たわけではない。だが、ピーターは困り顔で言った。 「俺がたよりないからか?」 「そうじゃねえ」 すこし、オルドも感情的になった。最近かかえていた、言いようのないもやもや感のせいもあった。 「俺にも考える余地をくれ。――なにもかも分からないことだらけなんだ」 めずらしく冷静さを欠いたオルドを見て、ピーターが近づいてきた。オルドはわけもなく、一歩下がった。この部屋には自分とピーターだけだ。茶化す人間も、止めてくれる人間もいない。だが、この秘書室のやつらは、ピーターがいますぐオルドを犯そうが、止めるどころか手伝いをしようとするかもしれないことを思い出して、舌打ちした。 (ピーターはそんなことはしない) だがそれは、オルドの思い込みでもあった。 オルドの動揺をよそに、ピーターはオルドの三十センチてまえで止まった。 そして、いつもの、あの柔らかい――オルドをだまし続けて来た、たよりない笑みを浮かべた。 |