「ごめん――そうだよな」

 ピーターは、苦笑気味に言った。

 「オルドには、わからないことばっかりだよな。ホントにごめん。でも、まだ、話せないんだ」

 「まだ、ってことは、いつかは話せるんだな?」

 オルドが聞くと、ピーターは返事をしなかった。

 

 「俺は、ほんとに、オルドには弱いんだ」

 ピーターが手を伸ばしてきたので、オルドはさらに一歩、後ずさった。

 「なんでも言うことを聞いてしまいたくなる。だから俺は、自分で決まりをつくったんだ」

 「き――決まり?」

 「そう。オルドの願いをなんでも聞いてあげるのは、三個まで」

 オルドの目の前に伸びてきた指先は、オルドの頬に触れそうだったが、三本の指を立てて止まった。

 「三個――?」

 

 「ライアンか、メリー、どっちか片方だけ、命を助けてあげる」

 

 オルドは、びくりと震えた。その細い目が、いっぱいに見開かれた。

 「オルドは、俺が行かないでくれと言ったのに、ちいさいころ、家を出たよね? でもオルドが辛そうだったから、俺は我慢した。それが一個目」

 オルドは我知らず、指先までつめたくなっていき、震えはじめたのを、こぶしを握ることでこらえた。

 「つぎは、オルドが、オルドのままでいたいと言った。ヴォールドの名じゃなくて、オルドの名前のまんまでもどらせてくれって――俺は困ったけど、オルドがそうしたいなら仕方ない――それがふたつ目」

 オルドはピーターにつかみかかりそうだった。

 「あとひとつしかないからね? だから、どちらかしか助けられない」

 「てめえ……っ!!」

 ついにオルドはピーターの胸ぐらをつかんだ。まるで見たことのない顔でオルドを見下ろす男がいた。これはだれだ。ピーターではない。

 「なんで黙ってた! メリーたちに危険が迫ってんのか、どうなんだ!?」

 

 ドーソンの任務に就いていた自分たちだ。ロナウドの調査対象になるのは分かっていた。だが、彼らなら逃げおおせられると思っていた。

 そしてピーターも、まさか、そんな選択を、オルドに突きつけるなんて。

 

 「――!?」

 オルドは、ピーターの胸ぐらをつかんだ手を、ぐっとつかみ返された。渾身の力で振りほどこうとしたが、もがくことすらできない。

 (ウソだろ)

 いざとなったら、カンタンにピーターを投げ飛ばせると思っていたオルドの予想は裏切られた。

 

 「……考える余地をあげるよ、オルド」

 ピーターは、まるで力を込めていないつかみ方をしている。なのにオルドは動けない。とくべつな体術でも習得しているかのようだった。

 どちらにしろ、オルドの知るピーターとは違う。

 「俺が出張からもどるまで、よく考えて選んで」

 ピーターは、なんとか寝癖をととのえたオルドの髪を乱した。なかなかおさまりの付かない寝癖を乱されただけでも殴りたいのに、ピーターはひどくかなしそうな顔をしていた。

 これでは殴れないではないか。

 「いっとくけど、君にはちゃんと仕事を置いていく。ひとりで彼らを助けに行こうとしても無駄だ」

 「――!?」

 

 社長室の扉がノックされ、リムジンの運転手が部屋まで迎えに来たことをオルドも悟った。

我にかえった。

現実を直視したくないと思ったのははじめてだ。

 

 「じゃあ、二ヶ月後」

 ピーターには何の変化も見られない。彼は出ていく。オルドは見送りの言葉も言えず、たたずんだ。

 

 ゴン。

 

 壁に頭を打ち付け、それが予想外に痛くてうずくまった。こんなことでもしなければ、冷静さをとりもどせなかった。

 (くそ……)

 ライアンとメリーを助ける方法は、かならずある。

 (それより、なぜピーターがあんなことを言いだしたかだ)

 それを考えろと言っているのか?

 オルドは、一瞬でも動揺した自分を責めたくなった。動揺は一番の敵だ。現実を見ないことも。

 

 ピーターは、あんな底意地の悪いことをいう人間ではなかったはずだ。

 だが、「はずだ」と思っているのはオルドだけで、じつは、そうではないのかもしれない。

 なんにしろ、ピーターが、自分だけに、「重要な案件」とやらの正体をかくし続けているのも、このことに関係があるのか。

 オルドは、いますぐピーターを追いかけて胸倉をひっつかみ、「俺をそれほどまでに信用できねえってンなら、ライアンとメリーのもとにもどる!」とでもわめきたててやろうかと思った。

 

 (――冷静になれ)

 オルドは唇をかんだ。

 (ガキのケンカをしてえわけじゃねえ)

 

 オルドは深呼吸をして、コーヒーをカップにつぎ、席へもどった。そして、ピーターの言った言葉に、ふと気づくところがあった。

 

 (願いは……三個)

 ひとつは、オルドがちいさなころ、アーズガルドの家を出たこと。

 ふたつめは、オルドが、「オルドの名」で、アーズガルドへもどりたいと言ったこと。

 

 (もう、最初の願いは取り消せねえ)

 オルドが幼いころ家を出たことは、すでに過ぎ去ってしまった事象であって、取り消すことはできない。

 (だが)

 

 ――オルドが、オルドの名を捨てれば、ふたつめの願いは、取り消せる?

 かなえられる願いが三個までなら、ふたつめの願いを捨てれば、ライアンとメリー、両方をたすけることができる?

 

 オルドは考え、深読みのし過ぎか、と失笑したが、あながち、深読みでもないかもしれないと思い直した。

 ピーターは、オルドがこの部屋に入ったとき、「アイゼンになにか言われた?」と聞いた。

 アイゼンに言われたことといえば、

 「傭兵の名を、捨ててねえんだなァ、ヴォール」

 くらいなものだ。洞窟でいわれた、「傭兵王国うんぬん」は、このさい関係ないだろう。

 (あいつは、俺をヴォールド、とは呼ばずにヴォール、と言った)

 むかし、ピーターはオルドをそう呼んでいた。やはりアイゼンとオルドは、かつて会ったことがあるのだ。

 

 (ピーターが、俺の名に、そこまでこだわる理由はなんなんだ?)

 

 そんなにオルドの名でもどってほしくなかったのなら、あの時点で、それはダメだというべきだった。オルドも多少、ゴネたかもしれないが、ピーターなら、「ダメ」な理由を、オルドにも納得できるように、説明できるはずだ。だがそれもなかった。ピーターはあっさりと――それを許諾した。

 いくらオルドの言うことをなんでも聞いてしまうからといって、それはないだろう。

 いまさら、意味深な言葉を投げつけてまで、オルドの名を取り上げるくらいなら、最初からダメだと言っていればよかった。

 

 (ピーター……おまえ、なにを考えてる?)

 オルドは、困惑した。

 (いくら俺でも、わからないことはあるんだ。教えてくれ)

 オルドは、ここにいないピーターに、そうつぶやいた。

 

 



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