アンジェリカのリカバリはしておく、と告げたペリドットを残し、皆々は帰路についたわけだが、すでに事態ははじまっていたのだった。 屋敷に入った途端に――ルナが一歩、屋敷に足を踏み入れたそのとき――大広間の古時計がなりはじめた。 ボーン、ボーン、ボーン、……。 長かった。時刻は午後六時半、すなわち十八時半。なのに、たしかに時計は、十九回鳴った。 「……いま、十九回鳴ったね」 それに気づいたのはクラウドだけだった。ルナも違和を感じ、じーっと時計を見つめているのだが、鳴った回数には気付いていないようだ。 クラウドも、時計を見つめて思考した。 (十九回……K19区を示唆しているのか?) K19区に、行けと? 時計から返答はない。あるはずもない。ルナは、穴があくほど時計を見つめていたが、それ以降はなにも起こらない。十九時になったら、やはり時計はまた、十九回鳴った。 その日は、とどこおりなく過ぎた。バーガスとアズラエルがつくった夕食をみんなで食べ、ルナはまた大広間の時計とにらめっこし、入浴し、ふたたび時計とにらめっこした。 なにかが起こることはまったくなかったので、ルナは部屋にもどり、ZOOカードを引っ張り出してきて、またじーっと眺めたが、だれも出てこない。 あきらめて、ベッドにもぐりこんだ。 ZOOカードボックスから、ぴょこん、と月を眺める子ウサギが顔を出したのは、みなが寝静まった深夜だった。 「リカバリ U LUNA NOVA」 うさこはそれだけ言って、またひょこっと箱の中に姿を消した。 ルナはその夜、夢を見た。 ノワの夢だ。しかし、ノワの前世を見たのではない。ノワがリビングにたたずんでいた。 ――椿の宿からもらった古時計のまえに。 彼は、時計を抱きかかえると、ふうっと姿を消したのだ。 ルナはあわてて、玄関から外へ出た。ノワがまるで招くように、少し離れたところからルナを見つめている。ノワのもとへ行こうとすると、彼はまた姿を消す。そのくりかえしだ。ルナは真夜中の道路を走り、ノワを追った。 ルナは深夜の街を、ノワを追いかけて走った――最後にノワが消えたのは、K19区の遊園地のまえだった。 なぜかルナは、大きなぬいぐるみをふたつ、両脇に抱えていた。 そこで、目が覚めた。 事態が静かに急展開したのは、翌朝だった。 ルナは、飛び起きると、アズラエルが「まだ寝てろ……」とルナをベッドに押し込めようとするのを跳ね上げ、一目散に大広間に走った。 夢は正夢であった。サイドボードにあった古時計がない。 「たいへんだ! のわが持っていっちゃった!」 ルナは頭を抱えたが、なぜ彼が時計を持っていってしまったのかは不明だ。 (……やっぱり、K19区の遊園地に行ってみよう) ルナは朝ご飯を食べたら、すぐ遊園地に向かうつもりでいた。 リビングに、バーガスがやってきた。 ルナは、「おはよ……」とあいさつをしかけて、おかしなことに気付いた。バーガスがこちらを見ていない。彼は、ルナを見ずにまっすぐ玄関扉を開け、郵便ボックスにつまっている、大量の新聞をどさどさと運び入れてから、外で深呼吸をした――「いい朝だ!」 そして、家の中にもどってきて、ルナに気づくことはまったくなく、まっすぐキッチンに向かった。 「……!?」 ルナはあわててバーガスを追いかけ、「バーガスさんおはよう!」と叫んでみた。 だが、バーガスからいつものように、「おはよう! うさちゃん」と元気のいい返事がかえってこない。彼はひとりで野菜を刻みながら、不審な顔でキッチンのドアを見るのだった。 「今日は起きてこねえな、うさちゃん」 (……!) 「あ、もしかして、昨夜はアズラエルとアレか」 ニヤケ面でひとりごと。ルナはおもわず、バーガスの尻に向かって頭突きをしてみた。 「うおごっ!?」 バーガスがのけぞり、不思議な顔であたりを見回す。ルナは確信した。バーガスに、ルナが見えていないのだ。 ルナはあわてて、部屋に戻った。 「あじゅ! あじゅ、あじゅ、あじゅっ!!!」 ルナは寝こけているアズラエルを揺り起こした。 「なんだ? どうした」 「あたしが見える!?」 また朝からカオスか。 アズラエルはうんざり顔で目を開けた。アホ面のウサギがいる。 「見えるがどうかしたか」 「バーガスさんに、あたしが見えてない!」 アズラエルはうなりながら起き、やっとルナの言葉を認識した。 「――は?」 「じゃあ、ルナちゃんが見えるのは、アズラエルとグレンと、ピエト、エーリヒだけなんだね」 クラウドは、だれもいない席のまえに置かれたプレートの中身が減っていくのを、不思議な面持ちで見つめた。その席には、透明人間になったルナがいる。 そう――透明人間という言葉がいちばんしっくりくる。 ルナは見えないだけで、たしかにそこに存在している。触れば、いるのが分かるのだ。ルナの頭突きが、見事バーガスのでかい尻にヒットしたように。 「ルナ姉ちゃん、透明人間になっちゃったの!?」 すげーと言いながら、ネイシャがつついている。 「あたしにも見えないってどういうことなのよ」 ミシェルもつつきながら言った。アズラエルから見たルナは、「ぷにぷにしないでっ」とむずがっているが、ルナの声は周囲に聞こえないので、攻撃されっぱなしだった。 「不思議なことにはもうすっかり慣れたけど、今度のことは極めつけだね」 レオナがあきれたように、ルナがいる“らしき”方をながめた。 「ルナちゃん、ちょっとは加減してくれな」 バーガスは、ルナの頭突きが相当いたかったらしい。まだ尻をさすっている。 「ルナがごめんって言ってる」 ピエトが訳した。アズラエルとグレン、ピエト、エーリヒ以外には、ルナの声も聞こえないのだ。 |