百六十六話 白ネズミの女王 V



 

 アンジェリカのリカバリはしておく、と告げたペリドットを残し、皆々は帰路についたわけだが、すでに事態ははじまっていたのだった。

 屋敷に入った途端に――ルナが一歩、屋敷に足を踏み入れたそのとき――大広間の古時計がなりはじめた。

ボーン、ボーン、ボーン、……。

長かった。時刻は午後六時半、すなわち十八時半。なのに、たしかに時計は、十九回鳴った。

 

「……いま、十九回鳴ったね」

それに気づいたのはクラウドだけだった。ルナも違和を感じ、じーっと時計を見つめているのだが、鳴った回数には気付いていないようだ。

クラウドも、時計を見つめて思考した。

 

(十九回……K19区を示唆しているのか?)

K19区に、行けと?

 

時計から返答はない。あるはずもない。ルナは、穴があくほど時計を見つめていたが、それ以降はなにも起こらない。十九時になったら、やはり時計はまた、十九回鳴った。

 

その日は、とどこおりなく過ぎた。バーガスとアズラエルがつくった夕食をみんなで食べ、ルナはまた大広間の時計とにらめっこし、入浴し、ふたたび時計とにらめっこした。

なにかが起こることはまったくなかったので、ルナは部屋にもどり、ZOOカードを引っ張り出してきて、またじーっと眺めたが、だれも出てこない。

あきらめて、ベッドにもぐりこんだ。

ZOOカードボックスから、ぴょこん、と月を眺める子ウサギが顔を出したのは、みなが寝静まった深夜だった。

 

「リカバリ U LUNA NOVA」

 

うさこはそれだけ言って、またひょこっと箱の中に姿を消した。

 

ルナはその夜、夢を見た。

ノワの夢だ。しかし、ノワの前世を見たのではない。ノワがリビングにたたずんでいた。

――椿の宿からもらった古時計のまえに。

彼は、時計を抱きかかえると、ふうっと姿を消したのだ。

ルナはあわてて、玄関から外へ出た。ノワがまるで招くように、少し離れたところからルナを見つめている。ノワのもとへ行こうとすると、彼はまた姿を消す。そのくりかえしだ。ルナは真夜中の道路を走り、ノワを追った。

ルナは深夜の街を、ノワを追いかけて走った――最後にノワが消えたのは、K19区の遊園地のまえだった。

なぜかルナは、大きなぬいぐるみをふたつ、両脇に抱えていた。

そこで、目が覚めた。

 

事態が静かに急展開したのは、翌朝だった。

ルナは、飛び起きると、アズラエルが「まだ寝てろ……」とルナをベッドに押し込めようとするのを跳ね上げ、一目散に大広間に走った。

夢は正夢であった。サイドボードにあった古時計がない。

「たいへんだ! のわが持っていっちゃった!」

ルナは頭を抱えたが、なぜ彼が時計を持っていってしまったのかは不明だ。

(……やっぱり、K19区の遊園地に行ってみよう)

ルナは朝ご飯を食べたら、すぐ遊園地に向かうつもりでいた。

 

リビングに、バーガスがやってきた。

ルナは、「おはよ……」とあいさつをしかけて、おかしなことに気付いた。バーガスがこちらを見ていない。彼は、ルナを見ずにまっすぐ玄関扉を開け、郵便ボックスにつまっている、大量の新聞をどさどさと運び入れてから、外で深呼吸をした――「いい朝だ!」

そして、家の中にもどってきて、ルナに気づくことはまったくなく、まっすぐキッチンに向かった。

 

「……!?」

ルナはあわててバーガスを追いかけ、「バーガスさんおはよう!」と叫んでみた。

だが、バーガスからいつものように、「おはよう! うさちゃん」と元気のいい返事がかえってこない。彼はひとりで野菜を刻みながら、不審な顔でキッチンのドアを見るのだった。

「今日は起きてこねえな、うさちゃん」

(……!)

「あ、もしかして、昨夜はアズラエルとアレか」

ニヤケ面でひとりごと。ルナはおもわず、バーガスの尻に向かって頭突きをしてみた。

「うおごっ!?」

バーガスがのけぞり、不思議な顔であたりを見回す。ルナは確信した。バーガスに、ルナが見えていないのだ。

ルナはあわてて、部屋に戻った。

 

「あじゅ! あじゅ、あじゅ、あじゅっ!!!」

ルナは寝こけているアズラエルを揺り起こした。

「なんだ? どうした」

「あたしが見える!?」

また朝からカオスか。

アズラエルはうんざり顔で目を開けた。アホ面のウサギがいる。

「見えるがどうかしたか」

「バーガスさんに、あたしが見えてない!」

アズラエルはうなりながら起き、やっとルナの言葉を認識した。

 

「――は?」

 

 

 

「じゃあ、ルナちゃんが見えるのは、アズラエルとグレンと、ピエト、エーリヒだけなんだね」

クラウドは、だれもいない席のまえに置かれたプレートの中身が減っていくのを、不思議な面持ちで見つめた。その席には、透明人間になったルナがいる。

そう――透明人間という言葉がいちばんしっくりくる。

ルナは見えないだけで、たしかにそこに存在している。触れば、いるのが分かるのだ。ルナの頭突きが、見事バーガスのでかい尻にヒットしたように。

 

「ルナ姉ちゃん、透明人間になっちゃったの!?」

すげーと言いながら、ネイシャがつついている。

「あたしにも見えないってどういうことなのよ」

ミシェルもつつきながら言った。アズラエルから見たルナは、「ぷにぷにしないでっ」とむずがっているが、ルナの声は周囲に聞こえないので、攻撃されっぱなしだった。

 

「不思議なことにはもうすっかり慣れたけど、今度のことは極めつけだね」

レオナがあきれたように、ルナがいる“らしき”方をながめた。

「ルナちゃん、ちょっとは加減してくれな」

バーガスは、ルナの頭突きが相当いたかったらしい。まだ尻をさすっている。

「ルナがごめんって言ってる」

ピエトが訳した。アズラエルとグレン、ピエト、エーリヒ以外には、ルナの声も聞こえないのだ。

 



*|| BACK || TOP || NEXT ||*