店に出ると、カウンターにグレンとミシェルがいて――ひさしぶりのメンズ・ミシェルの姿を見て、アズラエルもおどろいた。 「おまえ、久しぶりじゃねえか」 「よう、ご無沙汰」 「おまえ、ここでもバーテンダーやってんのか」 「いや。今日だけ。今日はほら――アンさんだったか? 彼女の最初のショーだから、手伝いに入ってるんだ」 オルティスはショーの準備でいそがしいからな、とミシェルは言った。 「オルティスに、あんな美人の母親がいたなんて、おどろきだよ」 これからラガーじゃ、プロの歌手のショーが見れるってことだな、とミシェルはうれしそうに言った。 蝶ネクタイにスーツ姿でグラスをみがいているミシェルは、どちらかというと、マタドール・カフェのバーテンダーの方が似合っていた。 隣で、グラスに氷の塊とウィスキーをぶちこんでいる、Tシャツと、デニム地のエプロン姿のグレンのほうが、ラガーにしっくり、馴染んでいる。 「グレンのほうが、俺よりよほど由緒正しいお家柄のお坊ちゃまなのにな……」 ミシェルが残念な顔でグレンを見、アズラエルも便乗した。 「劣化の一途をたどってるぜ」 「だまれ。劣化してンのはてめえだ――じぶんのタトゥが増えてるのも気付かねえとはな」 「……?」 アズラエルは、自分の左腕を見た――そして、やっと気づいた。 「……!?」 ほとんど黒一色のアズラエルのタトゥに、へんないたずら書きがされている。あまりに自然に馴染んでいるので、気づかなかった。 ミシェルが、それを見て吹きだした。 「てめえこのあいだ、飲みすぎて、ソファでうたたねしたろ。そのときから増えてる」 グレンはバカにした口調と顔で言った。ようするに、ヤツは犯行現場を見ていたが、だまってやらせたということだ。 犯人は分かっている。 アズラエルは、こっそり逃げ出そうとしたルナの頭をわしづかんだ。 「ルゥ?」 「ばれた!」 うさぎの動きは、うさ耳をわしづかまれたことで停止した。ルナはすばやく白状した。 「あたしです。描いたのは、あたしです」 「そんなことは分かってる」 アズラエルの左腕のタトゥの中に、マジックで描かれたうさぎが紛れ込んでいる。 「水性だから、なかなか消えないよ!」 得意げにいうルナに、アズラエルのこめかみに激震が走ったが、さらなる衝撃の事実がもたらされた。 「ライオンもあるよ! さて、どこにあるでしょう!?」 「!?」 グレンが「ふごっ!!」と笑い、ミシェルも、客の注文を聞き違えるほど、おかしな吹き方をした。 「――ルゥ、話は、家に帰ってからだ」 「よし! この話はあとだ!」 ケンカを買う気満々のルナは、アズラエルにデコピンをされ、悶絶しつつ、引きずられていった。 「ルナちゃん、あいかわらずだなァ」 ミシェルが涙を拭きながら笑い転げ、グレンもリキュールの蓋をあけながら、苦笑した。 「アイツは多分、八十になってもあんな感じだろうな」 かつて厚いカーテンで仕切られていた一番奥のスペースが、すっかりカーテンも取り払われて、ちいさなステージができていた。酒を飲みながら、アンの歌が聞ける空間に、改築されている。 おおきなグランド・ピアノが幅を取っていて、ジャズバンドも待機している。 「へえ――すげえな」 うさ耳をひっつかんでいたアズラエルは、やっと離した。ルナは、ぺっぺけぺーとみんながいる特等席に逃げた。 ステージに一番近いテーブルには、すでに来ていた屋敷のルームメンバーが座っていた。 「ママ!」 「こっちよルナ〜♪」 「ルナちゃん! ルナちゃんもここ来てお飲み!」 リンファンは、すでにカクテルを半分以上あけて、出来上がっていた。エマルの横には、すでに空になったジョッキが三つ。 「アンさんの生歌聞きながら、お酒が飲めるなんて最高ね〜♪」 「ドキドキしちゃうよ! はやくはじまんないかなあ……」 レオナとセシルも、さっきから、何度乾杯したかしれない。 ステージ前にたくさん置かれている花束やプレゼントの中に、大輪のバラの花束がある。 「あれは、エーリヒです」 「正解」 エーリヒではなくクラウドが言った。 「ルナ、あたしとルナの名前で、お花をあげたよ」 レディ・ミシェルが、一緒に並ぶ、小ぶりなフラワーアレンジメントのかごを指さした。 「あ、ありがと!」 「ところでさ、ミシェルのバーテンダー姿、見た?」 「うん、見た見た!」 「探偵より、バーテンダーやってるほうが似合うよね」 たいそうにぎやかな席で、ルナは空いた席に座った。ジャズのゆるやかなリズムが流れるなか、オルティスの声がカウンターの方から聞こえた。 「ルナちゃんは、なにを飲む?」 「いちごしぇいく!」 「おお、イチゴ・シェイクな」 はじめてラガーに来たときに、オルティスがつくってくれたイチゴ・シェイクは、とてもおいしかったのだ。 やがて、ツキヨが、ヴィヴィアンを抱いてテーブルにやってきた。ルナの隣に座り、ステージを向いて、ヴィヴィアンの手を取って振った。 「さあ、これから、おばあちゃんが歌いますよ」 ヴィヴィアンは、きゃっきゃと嬉しげにはしゃいでいる。 「あんたのおばあちゃんは、素敵な歌を歌う、とっても綺麗なおばあちゃんだ」 よく、見ておおき。 ツキヨの声とともに、店内の照明がふっと落とされ――ステージにスポットライトが当たった。 アンが現れた。きらめく真っ赤なドレスの裾を引きずって――。 興奮でさわがしかった店内がいっせいにしずかになり、やがてためいきのような、密やかなざわめきが、空間を満たした。 アンを知る者も、知らない者も、ステージに立つうつくしい彼女に、見とれた。 「アン・D・リューです」 マイクから流れるアンの声は、幸福に満ちていた。 「今日は――ありがとう」 アンは、ルナを見つめ、ツキヨと孫を見つめ――それから、一度目を伏せた。 「わたしを、この宇宙船に乗せてくれたひとたちへ――わたしの、仲間たちへ――子どもたちへ。――それから、オルティに」 オルティスは、厨房で、それを聞いていた。とてもではないが、顔が大洪水で、客の前に出られるご面相ではなかったのだ。 「“バラ色の蝶々”」 ピアノの前奏がはじまったら、ヴィヴィアンの動きがぴたりと止まった。真顔で、アンの姿を見つめている。 「あら、このこったら」 ツキヨが微笑んだ。 「おばあちゃんのお歌を聞く用意ができているよ」 ピアノの独奏から、急にジャズのにぎやかな音楽が重なりゆき――アンの歌声が、ふくらんで、弾けた。 「“バラ色の蝶々 だれよりもうつくしい蝶々 だれもがあなたに手を伸ばす だれもがあなたに焦がれる”」 エマルとレオナとセシル、リンファンが、肩を組んで、口ずさんでいた。 「“鮮やかなあなたにだれもが惹かれる バラ色の蝶々”」 バラ色の蝶々――まるでアンの人生そのもの。 アンが歌い、踊る姿は、可憐な蝶が舞う様に似ていた。 (マルセルよ、ニコルよ――見ているか) オルティスは、厨房の影から、アンの歌う姿を見た。涙であふれていってしまいそうな映像を、目に、しっかりと焼き付けるように。 (アンが歌ってるぜ。もういちど、歌ってる) ルナはそっと目を閉じた。 アンの優しい――それでいて、力強い声が、鼓膜を震わせる。 ルナのまぶたの裏に浮かぶのは、海岸で見た光景だった。 海に向かって歌声をひびかせるアンと、それにうっとりと聞きほれる、マルセルの姿。 「“バラ色の蝶々 あなたとずっと暮らせるのなら、どうなってもかまわない すべてがバラ色 どんな不幸もバラ色 バラ色の人生”」 ――俺の人生は、バラ色だった。 マルセルだけではない。アンを愛した皆が、そう思っているに違いなかった。 アンは、すべての想いを受け止めて、いまステージに立っている。 だからこそ、こんなにも心が震えるのかもしれなかった。 「“そう なにがあっても わたしの人生もバラ色”」 ――あなたがいるから 世界はバラ色 わたしの人生はバラ色――
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