怒涛の二週間が過ぎ――朝。

ダニエルの熱が、ようやく平熱に戻るきざしを見せた。まだ微熱はあったが、ダニエルは二週間ぶりに、自分の足で立って、食卓まで来た。

 ルナと一緒に、キッチンに顔を出したダニエルを、バーガスは大喜びで抱え上げた。

 「元気になったか、ダニー!」

 バーガスに高い高いをされて、ダニエルは嬉しげにはしゃいだ。

 「はい! 熱が下がりました」

 「マジかよ、熱、下がったのかダニー!」

 ピエトが駆けつけて、ダニエルの額に手を当てた。ダニエルが「つめたい!」と首をすくめた。

 「下がってる!」

 「うん!」

 「ダニエル! ゼラチンジャーごっこして遊ぼうぜ!」

 「うん!」

 「こらこら、病み上がりだから、あまり無茶しないでね!」

 ルナは、そう子どもたちの背に呼びかけてから、ダニエルの薬が切れたことに気づいた。

 

 「いけない、ダニーのお薬、主治医さんに頼まないと」

 「これ」

 セルゲイが、紙袋をふたつ、ルナに渡した。

 両方とも薬の袋だったが、片方は、ダニエルの主治医のサインがある薄い緑色の紙袋で、なかには、半透明のボトルに入った、シロップ状の薬が入っていた。いつもダニエルが飲んでいる薬だ。

 もうかたほうは、クリーム色の袋に入っていて、中央区の病院の名前が記されている。

 中身は、おなじボトルに入った、小児用の風邪薬だった。

 

 「ダニーの主治医さんから処方箋をもらって、同じ薬を、病院で処方してもらった」

 セルゲイは、なんだか難しい顔で、薬を見つめていた。

 「ただの、――風邪薬、なんだよね」

 「え?」

 「ダニーの薬」

 小児用の、ちょっとつよい熱さましだと、セルゲイは言った。

 「ムスタファさんも、薬の正体は知ってる。原因不明だし、とにかく、いままでいろんな薬をためして、なにもきかなかったから、いまは熱を下げるのが目的で薬を飲んでるみたいなんだけど――」

彼はそれ以上何も言わなかったが、考え込むようにして、だまってしまった。

 

「……」

ルナは、様子のおかしいセルゲイに不審を感じたが、とにかく眠かった。ダニエルと一緒に朝食を取ってから、三十分ばかり眠ろうと思った。

ダニエルがいつも飲んでいる野菜ジュースをさがしに、クローゼットを開けたが。

「あれ?」

クローゼットにしまいこんであったはずの野菜ジュースのケースがなかった。パックが三十個は入っていたはずだ。初日にダニエルが一本飲んだだけで、なくなるというのはあり得ないのだが。

「バーガスさん、ここに置いてあったジュースは?」

「ああ、それな」

バーガスは、ルナにこっそり、耳打ちした。

「セルゲイ先生が、捨てた」

「――え!?」

バーガスも、理解できないという顔で、肩をすくめた。

 

 

 

 さて、二週間ぶりに起きたダニエルは、卵料理と、スープとサラダ、パンの朝食を食べ、アズラエルに連れられて、散歩に出かけた。

 その日、ダニエルの熱は下がりもしなかったが、上がりもしなかった。

 

 それからだ。

――奇跡のようなことが起こり始めたのは。

 

 ダニエルの病気は、みるみるよくなった。

 よくなった、というよりか、つまり、熱が上がらなくなった。

 ルナがつきっきりだった二週間を過ぎ、その後一週間も、はしゃぎすぎて夜に熱を出すことはあったが、次の日の朝には下がった。

 

 ダニエルは、見違えるように変わっていった。

まず目の下からクマがなくなり、顔色がてきめんによくなり、体重が増えた。食欲も増進してきたし、四週間目の後半は、いちども熱が上がらなかったのである。

 二週間ごとになくなる薬は、定期的にムスタファ宅から送られてきたが、セルゲイは、「熱が上がっていないんだから、飲まなくていい」と言った。

 現に、薬を飲まなくても、ダニエルは熱をあげなかった。

 

 約束の一ヶ月――正式には四週間後が、やってきた。

 ダニエルの顔を見たときのムスタファの顔と言ったら――なかった。

 ムスタファの涙を見ることになろうとは――彼は、屋敷中の皆の手を取り、「ありがとう、ありがとう!」と百回も言ったにちがいない。

 いままで、どんな名医に見せても治らなかった息子が、血色もよくなり、すこし太った気さえする。

「パパ!」と抱き付いてきたダニエルの身体を、しっかりと抱きしめて、ムスタファは、はばかることもなく、大声で泣いた。

 

 「――神よ!」

 

 「さあ、坊ちゃま、帰りましょう」

 イーヴォがリムジンのドアを開けたが、ムスタファは止めた。

 「待ちなさい」

涙を拭き、元気になった息子の顔をしっかりと見つめて――言った。

「どうだろう――もうひとつき、預かってもらうわけにはいかないかね?」

 「だ、だんなさま……!」

 ムスタファの言葉に、イーヴォがうろたえた。

 

 アズラエルは、屋敷の皆を見まわしたが、だれも反対する顔をしていなかった。

 「俺たちはかまわいませんが、――ダニー、いいのか?」

 「いいんですか!?」

 ダニエルだけでなく、ピエトとネイシャの顔も輝いた。

 ムスタファは、涙をハンカチで拭きながら、微笑んだ。

 「どうか、頼む」

 「イーヴォは、さみしゅうございます……」

 世話役はそうつぶやいたが、これ以上ムスタファに言える言葉もなく――ダニエルは、もうひとつき、屋敷でお預かりとなった。

 

 



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